小説「パルミラ幻想 」

古代の砂漠に花一輪

女だてらに勇猛果敢

でっかい帝国おっ建てた(下図 黄色いところ)

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その花の名は、パルミラ女王 ゼノビア

・・・だけど

ここに登場するゼノビアさんは

えっちょっと、とたじろうじゃうかもしんない

女王さま・・・なの

f:id:enrilpenang:20181123152033j:plain今は廃墟と化したかつてのパルミラ王国の首都


             ≪しょの1≫

 男は思わずつぶやいた。
 うー、あつっ。こんな日盛りに往来で客をとりまこうなんてんだからやんなっちまうなあ。よっぽどのことでもねえかぎり、こんなくそ暑いなか、往来っ端(ぱた)をのたくってる物好きなんかいるわけゃあねぇや。っても、誰か獲物をとっつかまえねえことにゃ日干しになっちまう。おや、あそこへ行くのは高利貸しのムシウスだよ。いけね、やつにはとてつもない借りがあるんだ、脇へ隠れてやりすごそう。ありゃりゃ、見つかっちまったよ。弱ったなあこりゃどうも。
「おーい、そこへ行くのは道化のクラッシウスではないか。ちょっとこっちへこい、いい話があるんだ」
 へっ、どうせ借金の催促に決まってる。
「へえ、ムシウスの旦那、どうもお暑いことで。いまそちらのほうへ参ります」
「ふふっ、やってきたな。あい変わらずきたねえなりをしているな」
「へへ、どうも、んもう、どおも、ごぶさたいたしておりやす」
「いつものん気そうでいいな。こっちゃあそれどころじゃあない、お前みたいないい加減なやつがいるから商売あがったりだ。こんな昼日なかから往来を所在なさげにのたくってるくらいだから、借りを返すあてなんぞありゃあしめえ」
「へい、おそれいります。まったくもうその通りなんで。こうして歩いているふりをしておりますが、なあに借金が衣をはおってよろぼってるような始末なもんで」
「お前は、酒さえ呑まなければまずまずの道化なんだがな。おおかた、またどっかでしくじったんだろう」
「へい、元老院議員のウルピアヌス様のご機嫌をうかがっているあいだにしこたま呑みあさって、奥方のことをちょいとからかったのが運のつき。あの婆さんがシリア生まれだってのをうっかりど忘れして、シリア女の悪口をさんざんぶちまけたところ、婆さんの逆鱗にふれておっぽりだされました」
「お前は呑むとだらしなくなって客をしくじるが、いまだにそのくせがぬけんようじゃ、もうこのローマではやってはいけまい。出るところだってもうありゃせんのだろう。どうだ、皇帝陛下のシリア遠征にでも随伴して、将軍らのご機嫌うかがいなんぞしてみては。俸給の半分を前払いにしてもらって、それをそっくりわしへの返しに当てるのだ」
 あい変わらず抜け目のない男だな、とクラッシウス。うつむきながら算段する――とはいえこの男のいうことも満更じゃあないぞ。たしかにこのままじゃ干あがって乞食んなっちまう。ローマ市民ならパンだって娯楽だってただで手に入るが、おれは奴隷まがいの野太鼓だ。自分で稼がなきゃ食いつなぐこともできやしない。従軍道化でひと財産こしらえたってやつもいるってことだし、ここはいちばんやつの話にのっかってみようか。
「旦那のおっしゃることはごもっともでござんす。で、その手づるは旦那にあるんで?」
「ああ、ある。こたびのシリア遠征を実質的にぎゅうじるのは親衛隊長のマクリアヌスだが、この男がいま従軍道化を探しておる。金貸しのわしにはパトロンちゅうのが何人かおるが、そのうちの一人がこのマクリアヌスなのだ。やつは政務としては財務長官という要職にある」
 クラッシウスは胸中で毒づく――金貸しと財務長官がつるんで、おれみたいな素寒貧からも金をまきあげるってわけか。金を使うことしか能のないやつと、回すってことを知る者との違いだ。このおれときたら貯めることすらかなわない。そんな間抜けは、結局はこういう男の言いなりになっちまうほかないんだろう。
「わかりましたでげす。あたしはシリアに行きます。そして、戦場の将軍様たちのご無聊をおなぐさめすることにいたしましょう」
「そうか、そうと決まれば今すぐマクリアヌスのもとへ行って、お前を従軍道化に推挙してもらうことにしよう」
 ムシウスは、はずむような足どりで先にたって歩きだした。やつの後頭部をぽかりとやって、あのけばけばしい金髪のかつらをたたき落としてやりたいという衝動をやっとこさこらえて、クラッシウスは彼のあとにしたがった。
 ローマの街はしんと静まりかえっている。みんなシェスタ(午睡)に入っているのだ。住民らの大半は朝早くに起きて、ひと仕事が済んだなら飯を食らってさっさと寝てしまう。だが、仕事にあぶれて腹をすかせた者や、割のわるい仕事で食いつないでいる一部の職人らは寝ることもかなわない。
 マクリアヌスの屋敷はフォロ・ロマーノ(ローマ広場)からほど近い、だれもが認める一等地にあった。ムシウスが言った。
「マクリアヌスは女のところへ行っている。調べはついてるんだ。あいつが戻ってくるまで脇で待っていよう」
 二人は、マクリアヌスの屋敷のほど近くにある居酒屋に入った。居酒屋だの女郎屋だの浴場なんてのはシェスタとは無縁だ。クラッシウスの喉はごくりと鳴る。ムシウスはにやにやしながら言った。
「こんな時間にのそのそほっつき歩いているようじゃ、飯もまだなんだろう。軽く食べたらよかろう。それから蜂蜜酒ぐらいなら呑んでもかまわん。ただし、ちびちび舐めるくらいで我慢しておけ。酔っぱらった道化なんぞ、ぜひにもおそばへともってゆけるしろもんじゃないからな」
 尻のきゅっとせり上がった北アフリカ生まれらしいかわいい娘が、パンと小魚と蜂蜜酒を運んできた。その尻を焦げた眼で追いつつ、クラッシウスは蜂蜜酒をぐいとあおってひそかにまた毒づく――こんな水みたいな蜂蜜酒をちびちび舐めるなんてやつがどこにいるってんだ。いるとすればお前だ、ムシウス。
 ずれたかつらをなれた手つきで直しながらムシウスが言った。
「お前はガリアの生まれだったな。お前の金髪はわしのとはちがって本物だ。お前たちのような卑賤な蛮族に、神はどうしてそのような美しい黄金(こがね)色の髪をお与えになったのか、わしにはいまもって不思議でならん」
「だが旦那は、浮世の巷に実る黄金(こがね)をしこたま刈りとっていらっしゃる。あたしなんぞが手を出す間もなく刈りとっちまう。あたしの金色の髪なんぞ屁のつっぱりにもなりゃしません」
「うむ、その調子だ。そんな具合に将軍や将校たちをくすぐってやれ。うまく立ちまわれば駄賃がもらえて、小金も溜まるだろう。マクリアヌスのお抱え道化におさまりこんでいるティッティ(ティティニアス)を見てみろ。あいつは抜け目なくしこたま溜めこんで、いまじゃこの界隈ではいい顔だ。お前もいい旦那をこしらえて、ああなるといい」
 ティッティはクラッシウスと同様、解放奴隷の出だった。おまけに故郷までいっしょだった。彼もガリアの出身なのだ。道化の技を仕込まれた師匠も同じで、二人は兄弟弟子なのだった。だが、ティッティは酒など呑まない。しょっちゅう酒でしくじっているクラッシウスとはおお違いだった。
「おい、帰ってきたぞ。ティッティもいっしょだ」
 小窓から外をうかがっていたムシウスが言った。なるほど、豪勢な邸宅から少し離れたところで、でっぷりと太った巨漢のマクリアヌスが、鶴みたいに細いティッティに手をとられて忍び駕籠から降りてくるところがクラッシウスの目にも入った。
「行くぞ」
 と言うと、ムシウスはすばやく勘定を済ませて外へ飛びだしていった。クラッシウスは残りの蜂蜜酒をあわてて呑みほして彼のあとを追った。
 ムシウスの姿をみとめたマクリアヌスは、露骨にいやな顔をした。高利貸しとつるんで世間の陰でこっそり金をまわし、その割り前をたんまりかせいでいるという負い目があるのであろう。
「長官、このたびのご栄進を心から慶賀いたします」
 とムシウス。
「・・・おい、こんな昼日なか、金貸しに往来なんぞで声をかけられたりしたら困るではないか。わしがお前に金をまわしてるってのは内緒なんだからな」
 せかせかと邸宅へ向かう片足の不自由なマクリアヌスは、その歩みを止めようともせずそう言った。
「でも長官、というよりこれからは将軍と呼んだほうがいいのかな。でまぁ、将軍殿。実は今日、あのウルピアヌスの奥方から三百デナリウスほどとりたててきたんで、その割り前をお届けがてら、お探しの道化もひとり連れてまいったと、こういうわけなんで」
 クラッシウスは舌打ちした。なんてこった。おれがしくじったあのシリア女はムシウスから金を借りてたんだ。おおかたあの厚化粧婆あの化粧代と、亭主には内緒のおやつ代にでも消えたんだろう・・・。
「とにかくこんな往来っ端(ぱた)じゃろくな話もできん。まあいいから中へ入れ」
 女を囲う金くらいこうやってかせぎゃいいんだとでもいいたげに、思わずこぼれそうになる笑みをかみころしてマクリアヌスが言った。
 そのマクリアヌスを先頭に、左右に三本ずつならんだ大理石の柱の真ん中を通り抜けて彼らは玄関を入った。頭上には瓦葺きの木造のひさしがかかっている。わけ知り顔の玄関番が出迎えるなか、彼らは中央に雨水貯めの池槽が穿(うが)ってあるだだっ広い吹き抜けの大広間を通りぬけ、クラッシウスの住まい(仲間と共同借りだった)ほどもある広い廊下を横ぎって豪勢な客室に入った。大広間もそうだったが、この部屋の壁面にも手のこんだ絵がいくつも描かれていた。大広間のそれはマクリアヌスの立身出世物語だったが、この部屋のはガリアの蛮族を退治するマクリアヌスのけばけばしい武勇伝だった。部屋の四隅には、せせら笑いを浮かべた裸体の女神像が一体ずつ置かれていた。

f:id:enrilpenang:20181215120423j:plainポンペイのスルピキウス家の壁画(FORVM PACIS より引用)

 客室の奥には、食堂が大中小と三つ並んでいた。マクリアヌスは小さい食堂へと一行を導いた。どこからともなく召使いの奴隷が出てきて、客室との仕切りとなる木製の扉をうやうやしいしぐさでもって閉じた。
 扉に沿った壁際と両側壁側に臥台(がだい)が一台ずつコの字型に配置され、扉の向か側(台のない側)は中庭に面していた。その中庭には家族のためとおぼしき祭壇が祀られており、噴水がしずしずと水しぶきをあげ、彫像や季節の花器、花木などが配置されていた。

f:id:enrilpenang:20181215115118j:plain食堂の一例(再現模型 FORVM PACISより引用)

 主人であるマクリアヌスは本来、下座(中庭から見て左側の臥台)に席をとるべきだが、そんなことは知っちゃいないといった風情で上座(中庭から見て右側の臥台)に横たわった。ムシウスが主賓用の中座(中庭から見て正面の臥台)、クラッシウスら道化二人は下座へ席をとった。そこへ奴隷が出てきて、四人の履物を脱がせ、宴会用の室内履きにはきかえさせた。
 マクリアヌスが言う。
「ま、なんだ、半端な時刻だから半端な酒盛りといこう。半端なんだから食事服に着がえることもなかろう」
 クラッシウスの住まいのむき出しの床面とは違って、ここのそれは凝った意匠のモザイク画によっておおわれていた。冬場には床下に温風が通じる仕掛けになっている。クラッシウスのとなりに座を占めた顔までが鶴にそっくりなティッティが、にやにやしながらクラッシウスに言った。
「よっ、ご同輩、本日は首尾よくムシウスの旦那をとりまいたとみえるな」
 クラッシウスは言った。
「いや、とりまかれたんだ」
 ムシウスがにやにやしながら言った。
「はは、まあそんなところだな」
 派手な化粧の侍女三人が下僕をしたがえてやってきて、蜂蜜を割った葡萄酒と豚肉の燻製と乾酪(かんらく=チーズ)、それに色とりどりの果物をテーブルにならべた。
「いよっ、ありがた山の寒がらす、今日はなんて日がいいんだ。お女中衆、お酌はあたしがするから、お前さんがたはシェスタのつづきにでもなんでも行ってらっしゃい」
 と、やけのやんぱちでクラッシウスは言って、壷に入った葡萄酒を各自の杯についでまわり、もちろん自分の杯にもなみなみとついだ。ティッティが、自分につがれた杯を彼の前に押しやって言った。
「ご同輩、やつがれは酒をたしなまないのをご存じであろう」
「おっと、こいつぁいけねえ、そうでござんしたな。なに、あなたの持ち分はこのあたしがみなひきうけるでありんすよ」
 ムシウスが言った。
「将軍、これなる者はクラッシウスというけちな道化でありましてな。ティッティと同様ガリアの出で、ティッティとは違いこの通りの酒好きなんだが、とり持ちの腕のほうはそこそこのものを持っておる。わしはこやつにいくらかまわしてあるんだが、こやつがあちこちでしくじるもんだから、いまだに回収のめどがたたない」
 マクリアヌスは、ほかに見るものがないからしかたなくといった目をちらとクラッシウスに向けた。
「戦(いくさ)上手の将軍はまた、つわ者どものご機嫌とりにもたけてらっしゃる。将軍が腕のいい道化らをかき集めてそれを従軍させるというのは実にさすがなもんですな」
 と抜け目なくあるじを持ち上げておいて、ムシウスがさらにつづける。
「そこでいかがなものでありましょう、このクラッシウスを将軍の麾下にお加えいただいて、戦の明け暮れ、つかの間の団欒をこやつにとりもちさせようってのは。じつはこやつの俸給の半分をわしが受けとるという約定をかわしておりましてな。できればそれを前払いで頂戴したいもので」
 マクリアヌスはクラッシウスをじろりと見た。クラッシウスはひょいと頭をさげ、「景気づけにひとつ、むだ言をひってしんぜましょう」と言って、

♪ 蟻が畑で昼寝して とんびに蹴られて目が覚めた あらウップップ。いやなことこと蛙が鳴くよ 案じめさるな湯屋(ゆうや)の煙 いただき女郎は大あくび。女房だましてだまされに どうぞかなえて暮れの鐘 そうはうまくはいかの金玉。ゆうべ婿様とったのか とったらとったといいなさい。一人息子の兄弟づれが 川へながれて焼け死んだ あらおかしやな

 とやった。だれも笑わなかった。ティッティが言った。
「そういうひなびた地口は、戦地へ行ってからでもおやり。も少し粋な文句がひり出せないものかねぇ」と言って、今度はティッティがやりだした。

♪ お前に見しょとて結うたる髪を 夜中に乱すもまたお前 こうすりゃこうしてこうなるものと 知りつつこうしてこうなった。星の数ほど男はあれど 月と見ゆるはぬしばかり すごい手管にのりこなされて わたしゃいつでもはだか馬

 マクリアヌスがぱたぱたと拍手をした。ムシウスが「よう、よう」と気のない調子ではやした。たいして受けてはいない。ティッティだってたいしたこたあない。クラッシウスはほくそ笑んだ。
 ムシウスが言った。
「ところで将軍、こたびの遠征の勝算のほどはいかがなもので」
 マクリアヌスは葡萄酒をぐいとあおって、またかといった顔つきで答えた。あちこちで同じことをさんざんむしかえされているのだろう。なれた口調で彼は言った。
「ああ、このわしが親衛隊長をおおせつかった以上、負けるわけにはいかんがな。相手のペルシア王――シャープールってやつだがな、こやつは、三年前からシリアの我が属州で略奪をほしいままにしておる。今年はとうとう、シリアの州都アンティオキアまで落としおった。ウァレリアヌス皇帝陛下は、ご子息のガリエヌス様にガリアの防衛を託され、ご自身はシリアの奪還へと勇躍立ち上がられたのだ」

f:id:enrilpenang:20181212141546j:plainコインに彫られたシャープール1世

f:id:enrilpenang:20190113173326j:plainウァレリアヌス帝が彫られたコイン

f:id:enrilpenang:20181212190233j:plainガリエヌス帝の胸像

「シャープールはたしか、十五年以上前にも我が東部属州を侵略したことがありましたな」
「そうだ。あのときはシリアの東どなりのメソポタミアを奪いおった。若干十六歳のゴルディアヌス三世帝が親征に立たれて見事にとり戻されたがな。その遠征中に、軍とつるんで親衛隊長の座におさまりこんだのがアラブ人のピリップス・アラブスだ。この新しい親衛隊長のもと戦役は継続されたのだが、ペルシア側が猛烈な反撃に転じたのでローマ軍は大敗を喫してしまった。三世帝もこのときに討ち死にされたらしい。そのどさくさにまぎれこんで皇帝宣言をかまし、まんまと新皇帝の座にすべりこんだのがピリップス・アラブスだ。アラブス帝は、シャープールとのあいだでむりやり和議をとりつけたのだが、その代償にけっこうな賠償金を毎年納めねばならんことになった。おまけに五十万デナリウスの頭金までせびりとられた。帝は政権の足場固めのため急遽ローマにとって返さねばならんかったのであせってたんだな。シャープールのやつはその足もとを見すかして、法外な金をふっかけたってわけさ」

f:id:enrilpenang:20181212164402j:plainフィリップス・アラブス帝の胸像

「まったくペルシア人ってのは欲の皮のつっぱったやつらですな」
「うむ。しかし、あいつらには領土的な野心というものはまるでない。さんざん荒らしまわって、人といわず財宝といわず、奪えるだけのものはみんなかすめとって、それで満足しておる。ま、やつらなりに分をわきまえてるってことだ」
「で、ご出陣はいつになるので?」
「来月だ」
「陣触れは?」
「明日だ」

 

            ≪しょの2≫

 ガリア生まれの森の民であるクラッシウスは、いま、雑草とひねこびた灌木があちこちに気まぐれにはいつくばっている岩と礫(れき)ばかりの荒れはてた砂漠の真っただ中にいた。後悔してももうおそかった。ムシウスはまんまと彼の俸給を半分まきあげて、法外な利子とともに彼への貸しをすっかり清算してしまった。
 この干からびた大地に足を踏みいれるまでの行軍はいたって楽だった。最初の目的地であったシリアの州都アンティオキアは、すざまじい狼藉にさらされたあとの虚ろな残骸を地中海の風に臆面もなくさらしてはいたが、ほしいままの略奪と破壊に飽きたペルシア人どもは、もうとっくにユーフラテス河を渡って自領にひきあげていた。街を捨てて逃げだしていた住民らがまい戻って、職人や奴隷たちをこき使って街の復旧に精をだしていた。彼らは敵と戦うという命がけの難行よりも、荒らしつくされた廃墟を再建するという苦行のほうを進んで選ぶ人種なのだ。
 ローマ世界第三の大都とうたわれたその豪壮端麗な偉容も、いまや見るかげもなく煤けはて、焼き焦げと化したこの街で、親衛隊長マクリアヌスは自分の二人の息子と対面した。父親と同じ名前を名のるマクリアヌスと、その弟のクイエトゥスの兄弟だった。シリア総督でもあるマクリアヌスは、自分自身はローマにいて、総督職の実際の執行は彼ら二人に丸投げしていた。
 ウァレリアヌス帝にひきいられたローマ軍―― 一部の部隊は街の復旧のために留めおかれた――は、この焼け落ちた大都をあとにしてシリアの西部を縦断するロンテス川沿いに南方のエメサへと進軍した。そして、その街で勝手に皇帝を名乗っておさまりかえっていたおっちょこちょいのギリシア系シリア人をちょいとばかし懲らしめたあと、ローマの同盟都市であるパルミラへと向かうべく、このとりつく島もない岩だらけの砂漠へと足を踏み入れたわけだった。
 秋たけなわとはいえ砂漠は無性に暑かった。いちおう隊商路らしきものはあって、そこをゆきかう隊商の男らは、あざ笑うかのようにけろりとしていた。彼らの荷駄を運ぶラクダはむしろ、幸せそうな顔つきだった。
 夜はさらにひどかった。今度は酷寒にさいなまれた。吐く息までが白くなった。都でちゃらちゃら時を消していたクラッシウスら道化連は、こんな砂漠は初めてだった。彼らはそこで、生まれて初めての肌身にしみる驚愕の酸味をたっぷり味わった。
 寒さにうちふるえる野営の一夜を何とかやりすごし、じりじり陽に焼き焦がされる日盛りの難行軍を汗みどろでやっと突破しおえた翌日の夕暮れ間近、強い残光に照らしだされ琥珀色にうずくまる石造の大きな街なみが前方に見えてきた。パルミラに相違なかった。

f:id:enrilpenang:20181212105625j:plain阪急交通社 世界遺産 パルミラ遺跡より引用

 胸騒ぎがするほどにクラッシウスは感動した。まさにそれは砂漠の真っただ中に咲きほこる大輪の花だった。その花をとりかこむように緑の樹林がふせっていた。あれが話に聞くオアシスというものなのか・・・。こんな砂と石ころだらけの乾ききった不毛の大地に、突如としてあれほどの緑の大盤ぶるまい。神は気まぐれだというのが、これで証明されたようなものだった。
 司令官の命令で行軍は停止された。隊列の先頭からさざ波のように状況が伝わってきた。パルミラの太守であるオダエナトゥスが、臣下をしたがえて出迎えに参上しているという。
 軍列がふたたび動きだした。オダエナトゥス一行に先導されて市の城門へ向かっているのであろう。その城門がしだいに近づき、間近に迫るにつれてぐんぐん頭上にせりあがっていった。
 城門のアーチをぬけると、周壁でとり囲まれたとてつもなく巨大な神殿が右手に見えた。このあたりではいちばん羽振りのいいバールという神に捧げられた神殿だという。

f:id:enrilpenang:20181212110835j:plainバール(ベル)神殿

その神殿正面の前方には、趣向をこらしたアーチ型の美しい門があった。三つの門が連なっていて、真ん中が大きく左右の門は小さかった。

f:id:enrilpenang:20181212111440j:plain巨大遺跡へ行こう2より引用

 その真ん中の大きい門をぬけると、巨大な列柱群にはさまれた大きな通りがずっと遠くまでのびていた。ラクダの足裏を保護するためか、舗装はされていなかった。ラクダが十頭横並びで行進できるほどに広い。ローマにも列柱道はいくらもあるが、こんなに広く遠くまで延々とのびている列柱道はさすがにない。この大通りの両外縁は歩行者専用路になっていて木の屋根がかぶさっていた。大通りはもっぱら、隊商がラクダとともに往き来したり、出陣や凱旋の軍列それに祝いの隊列などが行進するのに用いられるのであろう。

f:id:enrilpenang:20181212112821j:plain列柱道

 歩行者専用路には住民らがすずなりになって、野太い声や黄色い声でにぎやかに喚声をあげていた。その彼らの頭上をおおう木の屋根越しに、ローマでもおなじみの円形劇場や共同浴場、神殿、アゴラ、裁判所や取引市場のあるバシリカなどの大きな公共建物が顔をのぞかせていた。

f:id:enrilpenang:20181212121204p:plainローマ劇場(ISによる破壊前後 Sputnic 日本より引用)

 日も落ちて、夕月が乳色の光のベールを投げかける頃、ローマ軍の兵士らは用意された宿舎に入った。とはいっても、まともな宿舎を与えられたのは軍の総帥である皇帝と皇帝直属の高官および親衛隊員だけで、軍団兵士らは街の周辺で野営をした。親衛隊長マクリアヌスとそのとりまき連のご機嫌をうかがうクラッシウスら道化は、いちおう親衛隊付きの扱いを受けて宿舎の片隅にもぐりこむことができた。
 入浴のあと、贅をつくした広大な貴賓室でとびきりの饗応を受けて満足しきった皇帝のもとへ、パルミラの太守オダエナトゥスが妻子をともなって謁見を得にやってきた。マクリアヌスを筆頭にローマの高官らも陪席し、クラッシウスら道化連もお囃子をつとめるべくその場にまぎれこんだ。
 ローマ風、ギリシア風、シリア風、さらにペルシア風とが渾然一体となった、なれぬうちは一見奇異とも映るきらびやかなパルミラぶりの装束に身をつつんだオダエナトゥスは、歳の頃は二十七、八、髪はややうすいが、それをおぎなうかのように髭を気前よく生やしていた。陽に焼けた精悍な顔だちが印象的で、身のさばき方もてきぱきしていた。彼の妻はおとなしそうな痩せ型の美人で、彼女に手をひかれた四歳ばかりの男の子は利発そうな目をしていた。

f:id:enrilpenang:20181212104136j:plain地下墳墓から見つかったパルミラ婦人像

 皇帝の前に進みでたオダエナトゥスはローマ風の礼をおこなった。皇帝の証(あかし)である紫衣をまとったウァレリアヌス帝は鷹揚に礼を返して、ぼそぼそとなにか言った。クラッシウスは帝をこんなに間近で見るのは初めてだったが、歳よりもずいぶん老けて見えた。確か帝の歳は六十五、六のはずだった。オダエナトゥスが妻子を紹介すると、帝は子供を抱きあげた。足をふんばらないと持ちあげられず、抱えおろすときにはつんのめりそうになった。帝の脇にはべっていた巨漢のマクリアヌスが言った。
「このたびの親征の目的はひとえに、我らが共通の敵であるペルシア軍の専横暴虐をたださんとすることにある。なにかとお手をわずらわすこととなろうが、どうかよしなに願いたい」
 中肉中背のオダエナトゥスが張りのある声で言った。
「もとより我らはローマのお味方。ローマの栄光は我らが誉れ、ローマの敵は我らの仇でござる。それがしの命でよければいつでも投げだしましょうぞ」
「うむ、よう言うた。陛下もお慶びであろう」
 そう言って、マクリアヌスは帝の顔をうかがい見た。帝は、あられもなく口を開いて舟をこいでいた。子供がくすりと笑った。

 ローマ軍はパルミラにひと月ほど滞在した。おかげで海を渡ったり、砂漠を越えたりの難行軍の疲れも癒え、またパルミラの太守オダエナトゥスの応接ぶりから見てもローマとの同盟に揺るぎのないことがうかがえたので、ローマ軍はアンティオキアへとひき返すことになった。オダエナトゥスは援兵として、勇猛でなるパルミラ弓兵五千それに騎兵三百をつけてくれた。パルミラはこのあたりではもっとも頼りになる軍事同盟国であるばかりりか、その太守オダエナトゥスはローマの執政官なみの扱いを受けていた。
 アンティオキアにおいて兵士たちを待ちうけていたものは、復興という名をかりた強制労働だった。壊れた街をたて直すには軍隊はもってこいだった。優秀な工兵隊がいるし、測量隊もいるし、働き盛りの屈強な兵士が六万以上もいる。クラッシウスら口先労働者の道化も、ちゃらちゃらしてはいられなかった。手足を動かすまともな労働にかりだされて兵士らの仕事の足をひっぱった。
 その年の暮れには街の復興作業もひと段落した。しかし、訪れる冬将軍が軍の出陣に待ったをかけた。ペルシア軍も冬は嫌いなはずだった。ローマ軍はアンティオキアでぐずぐずと冬をすごした。やっと出陣の命令がくだったのは翌年の三月初めで、ローマを出てからすでに半年以上がたっていた。
 ペルシア軍の前衛部隊は、シリアの東方を南下して流れるユーフラテス河の対岸――上メソポタミアに布陣していた。この上メソポタミアという一帯は、かつてはローマとパルティアとの、そしてこの二十数年間はローマとペルシアとの飽くなき争奪の場となっていた。あるときはパルティア領、あるときはローマ領、またあるときはペルシア領へと組みこまれ、腰の定まるいとまもないありさまだった。チグリス、ユーフラテスの両河川にはさまれたこの土地は肥沃なだけでなく、東西交易の要衝でもあるため、帝国主義者らは競ってこの地の領有をめざした。古都エデッサを主都とし、アレクサンドロス大王以来のギリシア人、それにアラブ人、シリア人、アルメニア人らが住んでいた。

f:id:enrilpenang:20181212190744j:plainユーフラテス河f:id:enrilpenang:20181212151853j:plain

 北東に向けて上メソポタミアをめざして進む行軍は、五カ月前の南の砂漠でのそれよりはずっと楽だった。先頭をゆくのは、本隊の露払いをつとめる身軽な軽装歩兵と弓兵の一団だった。彼らは敵の待ち伏せを探りつつ前進する。これにうちつづく本隊の先手をつとめるのは、長槍をたずさえた重装備の歩兵と騎兵だ。測量隊と工兵隊がそれにつづく。そのあとを軽装騎兵部隊の精鋭が追い、そのうしろを護衛にまもられた将軍らが騎馬にまたがって進む。その背後には、分解されたカタプルタ(投石機)やバリスタ(弩(ど)砲)を背にしたロバをひく運搬部隊がつづき、そのあとを親衛隊にまもられた皇帝と高官らが進む。皇帝はゆったりと寝そべることもできる臥輿(がよ)にのっている。親衛隊のうしろへつづくのは、軍団旗である鷲の旗をたずさえた旗手とホルンを手にした喇叭(らっぱ)手に先導された主力の歩兵部隊で、それがえんえんと隊列をなして行進する。糧食、飲み水、天幕、その他もろもろの軍用資材をつんだ荷駄隊がそのうしろにつづき、強力な歩兵と騎兵によって背後をかためられた同盟国部隊、補助部隊それに傭兵の部隊がしんがりをつとめる。同盟国や属州から徴用され、あるいは志願してきた兵士らや、この戦(いくさ)のために一時的にかき集められた傭兵部隊は逃亡のおそれがあるので、こうして背後をふさがれていたのである。

f:id:enrilpenang:20181215113750j:plain左が旗手。獣耳の毛皮を被っている(FORVM PACISより引用)f:id:enrilpenang:20181212193321j:plainローマ軍兵士の行進時の装備f:id:enrilpenang:20181212193259j:plainカタプルタ(投石機)

上図2点ともトラビアン日記より引用

f:id:enrilpenang:20181212193243g:plainバリスタ(弩砲)

 いつのまにやらクラッシウスのかたわらにきていた道化のティッティがいきなり声をかけてきた。クラッシウスははっとしてふり向いた――こいつはいつもこういう現れ方をする。
「ご同輩、いよいよ戦でありんすな。まさか道化のおれたちに武器をとれとはいわんだろうが、それにしても難儀なことだ。おれはこの戦が済んで、ローマへ帰って勝ち戦のおすそ分けをいただいたら、道化はもう引退しようかと思ってる。小さな土地でも買って、しらばっくれてのんびり生きてみようかと思う」
 妙にしんみりした言い方だった。クラッシウスは言った。
「だが、戦に勝つとはかぎらない。負けたときはどうする」
「負けるだの、こけるだのは言いっこなしだ。おれたちは自分につごうのいい明日(あした)を抱き枕してりゃあいいのさ」
「ローマとペルシアは、勝ったり負けたりを替わりばんこに繰りかえしている。前回のゴルディアヌス三世帝のときにはまがりなりにも初戦の合戦には勝ったから、今度は負けるんじゃないか」
「なに、その勝利なんてのもつかのま、ピリップス・アラブスが新たな親衛隊長になるやすぐさま手ひどい反撃をくらって結局は敗け戦、高い賠償金をはらわされて、やっとこさ和議にこぎつけたっていうていたらくだったじゃあないか。なあにね、仮に負けるんならまけるでかまわないのさ。命からがらローマにまい戻って、道化をつづけりゃいいだけのこと。いまよりわるくならなけりゃ、それでいいんだ。ちょっとくらいわるくなっても、それでいい。うんとわるくなりゃあ、もう先のことは考えるのはよして救い主にみんなおまかせするのさ。主は、明日のことは、明日みずからが思いわずらわんと申されているのでな」
 ティッティは、なにかいわくありげなことをしゃべり終えると、すっとクラッシウスのそばを離れた。クラッシウスはひとりごちた。やつは、救い主だなんて器用なもの言いをしやがった。そんな重宝なものがあるんなら、いますぐにでも出てきて救ってもらいたいもんだ。どうせ救い主などといったところで、そりゃあもう、にっちもさっちもいかずの手遅れになってから、いけしゃあしゃあと臆面もなくはいだしてきて、妙に口あたりのいい言いわけをたれるもんと決まっている。
 日の出とともに始まった行軍は、昼がすぎると野営の段どりに入った。先遣されていた工兵と測量兵が見つけだした適地に幕営をかまえるのだ。兵士らは方形に線引きされた設営地にそって濠および土塁、柵からなる堡塁を築きはじめた。設営地は全部で七ヶ所あり、それぞれの区画の四隅には旗がひるがえっていた。一つの設営地には通常二つのレギオンローマ市民権を有する者だけで構成された軍団)と同盟国部隊および補助部隊が配置され、一つの幕営を形成する。一レギオンはだいたい五千人だから、一幕営あたり約一万人プラス同盟国・補助部隊の人数ということになる。
 クラッシウスも以前から感心していることなのだが、こうした野営にあたってのローマ軍兵士らの幕営構築の手なみというのは、それはおそれいったものだった。みるみるうちに碁盤目状の区割りがなされ、通路ができあがり、陽暮れ前には羊皮の天幕の張りめぐらされた幕舎が整然とたちなんだ。幕営地の中央には本営が設営され、それをとりかこんで二つの軍団および同盟国と補助部隊の兵営が通路をはさんで幾重にも密集した。

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f:id:enrilpenang:20181214190259j:plainローマ軍の野営地の一例(Legatus -世界史・戦史を巡る-より引用。野営地見取り図の上にあるイラストは、野営地見取り図中の「今回の視点」より見たある日の兵士らの一シーン)

 ユーフラテス河岸まではまだかなりある。クラッシウスら道化連は、今宵も無聊をもてあます将軍らのご機嫌うかがいをさせられることであろう。かしこから馬のいななきや、炊事当番がたてるがちゃがちゃ音や、お国なまりまるだしの俗謡なんかが聞こえてくる。

♪ 痛がら鼬(いたち)の糞つけろ さっと痛がら猿の糞 うんと痛がら牛の糞 少し痛がら獅子の糞 まっと痛がら馬の糞つけろ
♪ 痛いだえん だえんついじの坊(ぼん)さんが 蜂に金玉(ふぐり)をつっ刺され 痛いともいわれず かゆいともいえず

 軽い怪我をした仲間をからかっているのであろう。属州各地からかき集められ、あるいは自ら志願をして参集した彼ら属州兵士は、カラカラ帝によるアントニヌス勅令以来の既得権であるローマ市民権も与えられている。二十五年間の俸給付き兵役をつとめあげれば名誉除隊し、しかるべきデナリウス銀貨ないしは農地を賦与される。おおかたの者は農地を選択し、土地持ちの農夫におさまる。
 夕風に頬をなぶられながらクラッシウスは思う。昼間、ティッティも言っていたが、土地持ちってのはそんなにいいものなのか。どうもおれにはぴんとこない。おれは先のことなど何も考えちゃあいない。酒さえ呑めりゃそれでいい。呑めるだけのんで、もういらないってほど呑みまくれりゃあそれでいい。

 

            ≪しょの3≫

 道化連に親衛隊長のマクリアヌスからお呼びがかかった。「へいへい、どうもこんちごひいきに」とかなんとか言って、道化たちはマクリアヌスの営舎に押しかけた。
 マクリアヌスお抱え道化のティッティがまず口をきった。
「よっ、マーさん、今宵はまたいっそうご様子がよござんす。でも日中の鎧兜に身をかためたマーさんはもっとすごい、ふるいつきたくなるような男ぶりでげすよ、にっくいねぇ、ふんとにもう」
 聞き飽きたべんちゃらに決まっているが、マクリアヌスは満更でもない顔つきをしている。こういう旦那はやりやすい。
 別の道化がこう唄った。

♪ 二十五までは親兄弟に あとはあなたにやる命

 クラッシウスがつまらなそうに聴いている。彼の歳はいま二十五。やるあてのない命をもてあましているといった風情。
 道化連が次々とあとへつづく。みなマクリアヌスの好みをよく心得ている。

♪ 惚れさせじょうずなあなたのくせに あきらめさせるのへたな方

♪ いやなお方の親切よりも 好いたお方の無理がよい

♪ 顔見りゃ苦労を忘れるような 人がありゃこそ苦労する

♪ あなたあなたと甘えるときは お金おくれと聞くがよい

♪ お酒呑むひと花なら桜 明日もさけさけ今日もさけ

 最後のやつはクラッシウスがやった。やがて鳴り物師らもうち揃って、宴会となった。

♪ アヽやイとこせイ よいやな ありゃりゃこれわいせー さゝよいやさァ

♪ げに治まれる四方(よも)の国 げに治まれる四方の国 関の戸をささでかよわん
♪ これは老木(おいぎ)の神松(かみまつ)の 千代に八千代にさざれ石の 巌(いわお)となりて苔のむすまで

♪ さァサ よいやな よいやさァ

♪ それ青陽の春になれば 四季の節会(せちえ)の事はじめ 不老門にて日月(じつげつ)の 光を君の叡覧にて 百官卿相(けいしょう)袖をつらぬ その数一億百余人 拝を進むる万古の声 一同に拝するその音は 天に響きておびただし
♪ 庭の砂(すなご)は金銀の 玉をつらねて敷妙(しきたえ)の 五百重(いおえ)の錦や瑠璃の扉(とぼそ) しゃ硝(こ)の行桁(ゆきげた) 瑪瑙(めのう)の橋 池の汀(みぎわ)の鶴亀は オリュンポスもよそならず 君の恵みぞありがたき
♪ 豊かに遊ぶ鶴亀の 齢(よわい)をさずくるこの君の 行く末まもれと我が神託の 告げを知らする松の風

 声自慢の道化らが替わるがわる、ときには声を合わせめでたい節(ふし)をうたいさんざめかせた。
 余興をくり広げる者もいる。衣装を後ろ前さかさに着て、顔と後頭部それぞれに異なる面をつけ、体を替わりばんこにひっくり返して各々の人物を演ずる者、手妻(手品)を見せる者、皿回しの芸を披露する者など、よりどりみどりだ。
 マクリアヌスとそのとりまき連は、猿回しの芸をことのほかお気に入りで、今夜もそれを所望した。
 ローマ人の普段着であるトゥニカをまとった雌の猿が、子供の人形をおんぶして所在なさげにうろうろしている。そこへ、猿回しが太鼓に合わせてこう唄いだした。

♪ ぼーやよい子じゃ ねんねーの子守りはどこいった(ドーンドン、ドンドコドン)、あの山越えて里いった 里のみやげになにもろうた ハイッ(ドンドンドン、ドンドコドン)、でんでん太鼓に笙(しょう)の笛 ハイッ(ドンドコドン、ドンドンドン)、ハイッ(ドーンドン、ドンドコドン)、でんでん太鼓に笙の笛 坊やよい子じゃねんねしな(ドンドコドン、ドンドンドン)、それでも坊やが泣くなれば 前に抱(いだ)いておっぱいのませて泣くじゃない ハイッ(ドーンドン、ドンドコドン)

 猿が自分の乳首を人形にあてがい、乳を飲ませるまねをする。

♪ この子はよいこじゃねんねしな ハイッ(ドンドコドン、ドンドンドン)、ゆすってゆすれよ それねんねしな それでも(ドンドンドン、ドンドコドン)このがき泣くならば こんながきなら死んじまえ ハイッ(ドンドンドン)、ホラッ(ドンドコドン)、ヤァ(ドンドンドン)、ヨォ(ドーンドン、ドンドコドン)

 人形をゆすってあやしたあと、ポーンと放りだす。

♪ まま子いじめたそのばちで あわれいざりとなりました ハイッ(ドンドコドン、ドンドンドン、ドン)

 ぺたっと坐りこみ、その姿勢のまま腕だけを使って前後左右にいざる。
 マクリアヌスとそのとりまき連は、腹をかかえて大笑いだ。こうなるとクラッシウスやティッティら幇間(ほうかん)道化に出番はない。それをいいことに、給仕の奴隷をせっついて、クラッシウスは抜け目なくぐびぐびやっていた。これさえできれば、めでたい松より首尾の松だ。猿に礼が言いたいくらいのものだった。
 臥台に横臥したまま褒美のイチジクを猿に放っているマクリアヌスのもとへ、伝令がやってきた。伝言を聞いたマクリアヌスは、がばとはね起きて大声で言った。
「おい、静まれ、皇帝陛下が来臨されるぞ」
 皇帝も退屈をもてあましているのであろう。皇帝直属の道化らも従軍してはいるが、彼らはクラッシウスらの道化連とはちがって、道化仲間のエリートだ。彼らの芸は、クラッシウスたちのそれとくらべてずっと品がいい。だが、帝はそれに飽きたらないのか、よくマクリアヌスの宴会に顔をだす。皇帝だって猿の芸が見たいのだ。
 帝が多勢のとりまきをひきつれてやってきた。道化もいる。顔をしかめている。道化のしかめっつらなんて、軍神に泣きべそが似あわないのと同様、さまにならない。クラッシウスらの道化連はにやにやしていた。
 帝はマクリアヌスに案内されて、マクリアヌスがそれまで寝そべっていた臥台に身を横たえた。帝はマクリアヌスがお気に入りだった。
 帝は猿回しの猿に目をとめ、にやりとした。マクリアヌスは察しよく猿回しに祝儀のデナリウス銀貨を放りなげ、人さし指でぐいをした。芸をはじめろという合図だった。猿回しは幾分緊張しながらもほくほく顔で太鼓をたたき、最前の猿回しの芸を再演しはじめた。
 猿は機嫌がわるかった。人形をおんぶしたまではよかったが、乳を飲ませる場面にくると人形をぽーんと放りだし、なにを思ったか皇帝の横臥している臥台に向かって突進した。あいにく猿と猿回しをつないでいる紐がへたっていたとみえ、それがぷつんとちょん切れた。猿は皇帝に飛びかかり、その顔をひっかいた。帝は悲鳴をあげた。
 警護についていた親衛隊員が帝のもとへかけつけたが、猿はひと足早くその場を逃れ、幕舎の羊皮の壁を身軽にかけあがって天上の梁へ張りついた。猿にその顔をひっかかれた史上初の(そしておそらくは最後の)ローマ皇帝となってしまった男は、親衛隊員に抱きかかえられるようにして自分の営舎にひきあげていった。
 弓兵が呼ばれて、矢がいっせいに猿めがけて射かけられた。そのうちの一本が脇腹に当たり、猿は床に落ちた。猿回しが猿のもとへすっ飛んでいってその体を抱きあげた。彼はおいおい泣いた。彼のあとを追った親衛隊員のひとりが、腰の短剣をひきぬき彼の首を刺した。猿回しは猿を抱いたままくずれ落ちた。手負いの猿は、どきっとするような鋭いひと声を虚空にぶちまけて四肢を一瞬つっぱらせ、やがてぐったりした。皇帝と将軍らはこうして、一番の演し物を失った。
 ローマ軍がユーフラテス河岸へとたどり着いたのは三月十日の昼すぎだった。河向こうにペルシア軍の守備部隊が蝟集していた。クラッシウスは不思議に怖いとは思わなかった。敵味方ともあまりに数が多すぎて、これが本当にこれから干戈(かんか)をまじえるのかという実感がわかなかったからだ。
 事実、両軍は河をはさんでにらみ合いをつづけるばかりで、なかなか戦端が開かれなかった。そのかわり声だけはかまびすしかった。ときの声やら、揶揄の声やら、獣じみた喚声やらがやたらといきかった。
 獣といえば、ペルシア軍はこれみよがしに象部隊を河べりに配置していた。クラッシウスは象そのものはローマで何度も見たことがあるが、こうして戦闘の手段として用いられるのを見るのは初めてだった。弓兵を満載した高櫓(こうろ)をしょっている象もいる。
 ローマ軍は、前衛部隊を河べりに張りつかせてペルシア軍に対峙させる段どりを整えたうえで、その後背地に陣営をかまえる作業にはいった。過去にくり出されたローマの遠征軍も、こうしてこの河をはさんで幾度もペルシア軍とにらみあいを重ねたことであろう。にらみあったままで幾日も何十日もすごしたことであろう。それと同じ日々が、これから訪れようとしているのだ。
 軍の実質的な統帥権を握るのは親衛隊長であるマクリアヌスだった。彼はまず、河を渡るのに必要な舟の徴発を部下に命じた。とはいっても、彼にはペルシア軍に先んじて渡河をする肚づもりはないはずだった。先に渡るほうが圧倒的に不利なのはわかりきったことだから。
 陣立ても整った数日後、軍団兵士のほぼ半分が陣を発った。河沿いに南下してペルシア本国の喉もとをおびやかす作戦だった。この動きを見れば、河向こうの軍勢にも何かしらの動きが出てくるだろうというマクリアヌスの読みだった。分遣隊の指揮は勇猛でなる副司令官のバリスタに一任し、マクリアヌス自身は皇帝とともに陣にとどまった。クラッシウスやティッティらのマクリアヌス付きの道化や、皇帝お抱えの道化らも動くことはなかったが、分遣隊をひきいる将軍らに雇われた道化たちは南へ向かった。

 

            ≪しょの4≫

 老帝にひきいられてユーフラテス河岸に布陣したローマ軍は、このあとなんと三年ものあいだ、シリアとメソポタミアとペルシア本国とのあいだを往ったり来たりした。先述したごとく、あるときはメソポタミアとペルシア本国への二方面作戦にでたかと思うと、あるときは全軍を結集させてペルシア本国へと攻めよせ、またあるときはユーフラテス河を渡ってメソポタミアに攻めいった。どの戦いも勝敗がつかなかったり、ついたようでもついたような気がしないといった戦況がつづいた。そして、その合間あいまにはシリアにひきあげて休養をとり軍容のたて直しをはかったり、ローマへ勅令を発してかりそめの勝利を祝う戦勝記念コインを発行させたり、ローマの施政にしたがわなないクリスト(キリスト)教徒らを弾圧させたりもした。
 今にして明らかなことは、ローマ軍は結局、シャープールの老獪な戦略にまんまと踊らされていたにすぎないということだった。ペルシア王シャープールはまったくあせっていなかった。彼はひたすらローマ軍の消耗を待っていた。事実、長い戦(いくさ)もそろそろお開きになろうかという頃、ローマ軍が上メソポタミアの主都エデッサを陥落させた際にも彼は少しもあわてなかった。彼は大軍をひきいてエデッサを包囲した。マクリアヌスは無謀な突撃を命じて血路を開かせようとはしたが、たちまち手ひどい反撃にあって撃退され、大きな損害をだした。マクリアヌスはシャープールの手のひらで右往左往しているにすぎなかった。
 さらにいけないことには、体力の衰えたローマ軍兵士のあいだに疫病がはびこり、多くの死者がでたことだった。糧道をたたれて飢餓にも苦しんだ。もはやローマ軍に勝ち目はなかった。
 兵士らのあいだには不満がうずまいた。すべての責任は皇帝と無能な総司令官マクリアヌスにありと、造反の気配さえただよった。ことここにいたって、帝とマクリアヌスは莫大な賠償金を餌にシャープールと和議を結ぶという決断をくだした。
 シャープールはだが、そんな甘ちゃんではなかった。大金とひきかえにローマ軍の撤退を認めるなんてことは決してしなかった。和議の使者を捕縛したうえ、戦列を整えて城門直下にまで押しよせ、「わずかな供回りだけをひきつれて皇帝自らじかに話し合いに出てこい」と大声で吼えた。皇帝は逡巡したが、結局、兵士らに押しだされるようにして親衛隊長マクリアヌスと高官らにつき添われて城門を出、シャープールの面前に進みでた。騎上のシャープールはにやりと笑い、部下に命じてうむをいわせず彼らを捕らえさせた。猿にその顔をひっかかれた史上初のローマ皇帝となってしまった男は、不名誉な捕囚の身へとつき落とされた初めてのローマ皇帝ともなってしまったのだ。

f:id:enrilpenang:20181126173450j:plainペルシア王シャープールに降伏するウァレリアヌス帝(イランの巨岩遺跡の岸壁に彫られた磨崖像)

 勝ちにおごるペルシア王は、皇帝に退位をせまり、それを応諾させた。さらに後継者を選ぶ権限までも認めさせた。王は側近の兵に命じて、帝位の証(あかし)である紫衣を皇帝の身からはぎとらせた。地上の覇者であるはずの皇帝はいまや、貧農の家長ほどの誇りすら放擲していた。
 王はある男を呼びよせ、その男を新たなローマ皇帝とすることを宣言した。紫衣がその男に手渡され、男はそれを身にまとった。城壁でその茶番を見まもっていたローマ軍兵士らがやけくその歓呼をあげた。かりそめの新皇帝に任命された恥知らずの男の名はキリアデスといい、アンティオキア出身の亡命ローマ人で、腰ぎんちゃくよろしくペルシア王にとりいって風見鶏をきめこんでいるろくでなしだった。
 投降軍団となりはてたローマ軍兵士らは全員捕虜とされ、ペルシア本国へ送られることとなった。もちろん、クラッシウスら道化連も同様だった。勝ちにおごるシャープールは主力軍をひきい、紫衣をまとったいかさまのローマ皇帝を先頭に押したてて小アジアカッパドキアへと向け新たな侵略の途についた。
 捕虜などというにっちもさっちもいかない、洒落にもならない情けない身を仮ごしらえの収容所にとり残されて七日ほどがすぎさったある夜のこと、外からすざまじい喚声がわきあがってクラッシウスははね起きた。となりにいるティッティも細い目をこじあけて暗闇をきょときょと見まわしている。ティッティが言った。
「おい、なんなんだ?」
「知るもんか。なにかが起こって、なんかがあって、なにかまわずの橋の上。橋の上からしょんべんすれば、川のドジョウの滝のぼり」
 喚声には金属音や馬のいななき、ひづめの音もまじっていた。いくらぼんくらなクラッシウスでも、あれは闘いの喧騒に違いないことがわかった。ローマの新手(あらて)軍が攻めてきたのだろうか。いや、そんなわけはない。シャープールに追いまくられて今はそれどころじゃないだろう。とするとこりゃいったい、いったいぜんたいウェヌス(ヴィーナス)姐さん教えておくれ・・・。
 木造の収容所に火がかかった。めらめら燃えはじめる。クラッシウスとティッティはその火の手に向かって突進した。火でもろくなった壁板をけ破って表に出ると、あちこちが燃えていて、けむくて目があけていられないくらいだった。
 不意をつかれて逃げまどうペルシア兵を追って騎馬の一団が迫ってきた。燃えさかる炎に照らしだされてぐんぐん大きくなってくる。騎兵の装束を見てパルミラ軍だというのがわかった。パルミラがシャープールのいない隙を狙って攻めこんできたのだ。
 いま、クラッシウスの眼前を騎馬隊が走りすぎていく。その疾駆する一群からのある一対の強い眼差しを感じて、クラッシウスはそっちを見やったのだが、走り去っていく後ろ姿しか見えなかった。漆黒の髪をなびかせていた。それは確かに男ではなく女だった。
 パルミラ軍の奇襲によって、クラッシウスとティッティらは救われたが、彼らは捕虜集団のほんの一部であるにすぎなかった。しかしその一部のなかには多くの親衛隊員がいて、親衛隊長のマクリアヌスや、マクリアヌスに次ぐ親衛隊ナンバーツーの実力者バリスタもそこに含まれていたが、その彼ら以外の捕虜の大部分とウァレリアヌス帝とは、本国に撤退するペルシア軍によって連れ去られた。そんなペルシア軍をパルミラ軍は深追いしなかった。彼ら異邦人をこの一帯から追い返すだけで充分だったのだ。

 奇襲の翌々日、ささやかな戦勝祝賀パレードが挙行された。パルミラの太守オダエナトゥスにひきいられたパルミラ軍と、マクリアヌスにひきいられた、運よく難を逃れたわずかばかりのローマ軍兵士らが街の目抜通りを行進した。オダエナトゥスはぐっと羽振りがよく、マクリアヌスのほうは子どもじみた貧乏くさい虚勢を精一杯に張っていた。
 沿道の群集に混じってパレードを見物していたクラッシウスは、あの強い眼差しをまたしても感じた。その瞳の持ち主が、オダエナトゥスに随行しているひとりの若い女騎兵であることにもやっと気づいた。もちろん、それはただの女兵士ではなかった。奥方として、また、ひとりの若き少壮司令官としてオダエナトゥスに随伴するゼノビアという名の女丈夫だったのだ。
 あの強い眼差しには、彼と同様の印象をもつ者が大勢いることだろう(アメリカのLake Union Publishing社から出版された書籍「砂と石の娘(Libbie Hawker著)」の表紙に描かれたゼノビア)。それは輝きの矢とでもいうものだった。それをゆっくり行進しながら左右の群集へ放っている。笑みをたたえながら。どんなに遠くからでもその矢には射すくめられることだろう。
 オダエナトゥスの前妻はどうなったのであろう。四年前に一度、クラッシウスはパルミラの宮殿で彼女を目にしている。小さな子供の手をひいていた。彼女は死んだのであろうか。
 パルミラ軍の夜襲によって救われたローマの親衛隊員らはオダエナトゥスに願いでた。アンティオキアへ帰らせてほしいと。それは即座に許され、彼らはそうそうにアンティオキアへと出立した。もちろん、クラッシウスとティッティら道化連もしっかりそのあとにくっついて・・・。
 四年ぶりに見るアンティオキアはかなり復興していたが、まだあちこちにペルシア軍にかじられた乱暴狼藉のあとを残していた。こうした状況下で真っ先に息を吹き返すのは酒場とかりそめの歓楽街に決まっていた。クラッシウスは矢も盾もたまらず、居酒屋に駆け込んだ。浴びるように呑みまくり酔いつぶれるつもりで。
 クラッシウスが反吐(へど)と悪態を吐きちらしながら、ティッティの肩にへばりついて宿へ帰ろうとしている頃、マクリアヌスの二人の息子、マクリアヌスとその弟クイエトゥスとは父親とひそひそ話の真っ最中だった。
 兄弟は父親に言った。
「ウァレリアヌス帝が捕虜として連れ去られてしまったので、ご子息のガリエヌス様がこれまでの共治帝から単独帝へと登位されたが、皇帝が捕虜にとられたってんでは帝国の権威なんぞ風前の灯ですよ。不安に駆られた各地の軍団は、自分らの身内から皇帝を擁立しようってんで大さわぎだ。現にガリアでは、ゲルマニアの総督ポストゥムスが皇帝を宣言してガリア帝国をおっ建て、初代のガリア皇帝におさまりこんでいる。また蛮族どもが帝国の各地を荒らしまわり、北アフリカとシリアとローマから南のごく限られた地域を残して蛮族の略奪にあっている」
 父親が言った。
「そうした帝国の惨状に対して、ガリエヌス帝は、口先ばかりで意気地のない元老院議員どもを軍務から完全にしめだしてしまい、軍事のことはすべて軍人まかせにされてしまったが、そのおかげで軍人どもがのさばる結果となり、我も我もとあっちこっちで軍人皇帝が大はやりとなってしまった。だがな、このわし――マクリアヌスはれっきとした元老院の議員だ。そのへんの軍人皇帝どもとは生まれも育ちもけたがちがう。世が世なればこのわしこそが・・・」
 父親の目はぎらぎらしていた。兄弟の目はもっと・・・。名うての業つく張り親子三人の意はこのとき一つになった。我らも皇帝に!
「お前たち二人――兄弟で皇帝を名のるがいい。皇帝を宣言するには親衛隊の支持が欠かせんが、わしはこれでも親衛隊の隊長だ。といってもエデッサの戦いでみそをつけてしまったんで、わしの影響力など屁みたいなものだ。いま、親衛隊をぎゅうじっているのは副司令官のバリスタだが、こやつはわしが目をかけてひきあげてやったやつだから、こいつの支持さえとりつければお前たちは皇帝になれる。まあ、わしにまかせておくがいい・・・」
 ことはほぼマクリアヌスの思惑通りにはこんで、マクリアヌスの二人の息子、父親と同じ姓を名のるマクリアヌスと弟のクイエトゥスとは、実質上の親衛隊長であるバリスタの後見のもと共治皇帝宣言をおこなった。シリア、アエギュプトゥス
(エジプト)、カッパドキアなどにおいてこの帝位は承認され、兄弟はそれらの地域のローマ軍団を動員する権利を得た。こうしたいんちき皇帝は僭帝と呼ばれ、この当時の帝国内では、入れかわり立ちかわり二十人ちかくが、そんなかりそめの帝位についている。中には無理やりかつぎあげられて帝位につかされた者もいて、ポントゥス(アナトリア地方の黒海南岸)のサトゥルニヌスなどは、帝位の推戴を受けたその日、「諸君は有能な司令官を失った。そして惨めきわまる皇帝をつくったのだ」とぼやいてみせた。
 パルミラにいるオダエナトゥスには、こうしたマクリアヌス一派の動きはまったく知らされず、完全につんぼさじきに置かれていた。が、ほどなく事情を知らされるや烈火のごとく怒った。パルミラローマ帝国の傘下にあることで政情が安定し、そのおかげでパルミラの経済と軍事力は著しく発展したのをよく心得ていた彼は、ローマに対してはゆるぎのない忠誠を誓っていた。そのローマをないがしろにする僭帝騒動が、おのれ自らがペルシアから救いだしてやった連中の手によってひきおこされたことに腹をたてたのだ。ローマに対する自分の面子もかたなしである。
 その僭帝の兄のほうが、父親とともに軍勢をひきいて全ローマ領土への勢力拡大をめざしてバルカン半島に侵入した。だが、イリュリクム(バルカン半島北西部のローマ属州)においてガリエヌス帝が派遣したアウレオルスの軍に敗北、二人はあえなく戦死した。
 オダエナトゥスのほうもだまってはいなかった。弓騎兵を主力とする自慢の軍勢をひきいて、アンティオキアにとどまり様子見をきめこんでいた僭帝の弟のほう――クイエトゥスに襲いかかった。クイエトゥスはシリアの首都エメサに逃げ込んだが、この逃亡皇帝がパルミラ軍の包囲によって逃げ場を失ったとみるや、エメサの住民は彼をとりかこんでなぶり殺しにした。住民をそのように扇動したのはバリスタだという噂も流れた。仲間割れでもしたのか。

f:id:enrilpenang:20181212153843j:plainクイエトゥスが彫られたコイン

 まあ、こんなことどもはクラッシウスら道化にとってはどうでもいいことだったが、それでもマクリアヌスが死んだということは、ティッティにとっては死活問題だった。なにしろ頼りにしていた旦那が亡くなったのだ。彼の落胆ぶりはかなりのものだった。クラッシウスは、「見たや逢いたや 山ほととぎす 姿ならずば声なりと」とやった。なぐさめるつもりで。
 ティッティは
「へん、あんなやつ、会いたいとも思わねぇ。なあに大事な金づるが消えちまったてんでがっかりしてんのさ」
 まあ、そんなところだろう、さすがティッティだ、よう、よう、とクラッシウス。
「それに、お先真っ暗ってのも気に入らねえ」
 確かにティッティの言う通りだった。従軍道化という働き口がスポッと失せて、身の置きどころがなくなっていた。クラッシウスは言った。
パルミラに行かないか」
「うん、おれもそれを考えていた。おれたちをペルシアから救ってくれた奇特な王様のいるところだしな。それにすこぶる面白そうな街じゃないか。いろんな国のいろんな人間や物、人情がごったまぜに渦まいている」
「よっしゃ、決まりだ。パルミラで命の洗濯としゃれこもう」

 

            ≪しょの5≫

 ティッティがなけなしの金をはたいてくれたおかげで、二人はパルミラに向かうというアラブ人の隊商にもぐりこむことができた。からっけつのクラッシウスにはおよそ及ばぬ芸当だ。さすがティッティ、よう、よう、とはやすクラッシウスを指先でちょこんとはじいて、「ふん」といってとりあわぬティッティ。
 隊商とは砂漠を旅する商人とその用心棒らが織りなす移動武装商業集団。オアシスとは砂漠の港。ラクダとは砂漠の船。隊商・オアシス・ラクダの3つが束になってより添うホームが隊商都市。その取締りみたいなところがパルミラだ。
 二人がパルミラに着いたのは二六一年の七月だった。日付なんて、二人の頭の片隅にさえないから、まあ、それはいつであってもいいのだが、とりあえず二人は街中(まちなか)をうろついた。むこう半年間は退屈せずに済みそうな心楽しい喧騒と食べ物の匂い、白・黒・褐色とよりどりみどりの肌の色、意味はわからないままに耳元を吹きすぎるいろんな国のいろいろな言葉。
 この地でクラッシウスはうれしい大発見をした。居酒屋で麦酒(ビール)が存分に呑めたのだ。麦酒はクラッシウスの故郷のガリアではありふれたものだが、ローマでは、野蛮人の飲み物として排斥されていたせいで街中からは姿を消していた。一度呑んでみたいと願っていたことがかない、また麦酒を給仕してくれた姐ちゃんの愛想がよかったこともあって、クラッシウスは上機嫌だった。ティッティのほうは「いい気になりやがって、ったくもう」といった憮然の風情。
 そばの席に、誰はばかることなく論談の風を吹かせる上品な男二人がいた。若いほうが言う。
「ですからね先生、あなたがご寵愛のその流出説ってのはどれだけの人間が真に受けてるってんです?」
 さいわいラテン語なので言葉は通じる。連れの一方――年配のほうが答える。
「うむ、至純の形而上界の一(いつ)なるものよりあふれ、流出されたる万物のその最下流が形而下の世界であり、その世界こそがこの宇宙だというのが流出説の骨子なんだが・・・」
「ふふ、やっぱり上から下へと流れるんですね。そこらはやっぱり自然法則にはさからえないってわけか」
 わきからクラッシウスが毒づく。
「うへーい、上だ下だって言ってやがら、おれぁ中がいいよ。おめえらは上から下へ流れ出たものがこの宇宙だって言うが、そんなら答えてくれ、神がこの世界をこしらえたってぇのとどこが違うんだ」
 年配のほうの男が言った。
「お前さんは?」
「お前さんてほどのもんじゃねぇさ。お前よんってぇところだ。しがねえ道化さ。ローマから落ちてきたんだ」
「一杯どうだね」
「はいよ、いただきますとも」
 クラッシウスは無遠慮にごくごくやった。年配の男が言った。
「これから宮中へ帰ってちょっとした宴会に出るんだが、どうだ、あんたらも一緒に来ないか。座持ちのほうをお願いしたい」
 クラッシウスはティッティのほうをちらっと見て、ティッティが小さくうなずくのを見て、
「へい、へい、こんちごひいきに。地獄の底の離れ座敷にだってついていくでありんす」
 と言った。
 会計のほうはクラッシウスらの分も含めて上品な二人が済ませた。上品な二人はすたすた歩いてゆく。クラッシウスとティッティは藁にもすがる思いで彼らのあとを追う。なにしろティッティが、パルミラまで連れてきてくれた隊商になけなしの金まで払ってしまったせいで、二人には麦酒を呑むくらいの金しか残っていなかったのだ。
 しらばっくれて乙に澄まして歩いてなどいられぬような、うずうずする酒場街を通り抜けて、四人は街の目抜きのいろんな道具立て――広場やアゴラ、フォーラム、バシリカなどの建造物が覇を競っている一角に入り込んだ。広場や建物群はどれも優美・広壮でローマ風だったが、その実ローマとはうんと異なっていた。確かに外見はローマ風をよそおってはいるが、その身ぐるみを剥げば、その実体とはオリエントであり、ローマよりはるかなる大昔から時のやすりにかけられて熟成した、それでいてどこか荒々しく、猥雑で熱っぽい生気にあふれて躍動する精気の奔流といったようなものがにじみ出ていた。
 上品な二人はやがて、広場や神殿をいくつも通りすぎたところへ、中心街からははずれ、しんと静まりかえった高貴な方々がお住まいの宮殿の一つへと道化二人を連れていった。
「おいおい、小汚ねえ酒場からいきなりこんな目のくらむようなところへ連れてきて、いったいどうしようってんだい」
 とクラッシウスが言うのもかまわず、上品な二人は門衛に軽く手をふって道化二人を宮中に招じ入れた。
「うっへー、これぁすげえ! マクリアヌス旦那の館なんざさしずめ物置だ」
 と、これはティッティ。
 上品な二人は、道化二人を宴会場へと導いた。華やかに彩(いろど)られた何かの花の精巧な浮き彫りでぎっしり埋めつくされたど高い丸天井、壁には神話を題材にした彩色豊かなフレスコ画、それに金糸や紫糸を惜しげもなく織りなした豪勢な壁掛け、そしてかしこに置かれた大理石の彫像、床には繊細な幾何学模様をあしらったモザイク画がうねうねとのたくっていた。そして何よりも度肝をぬかれるのはその空間の広大さだった。まさにローマの大金持ちの大広間の二つ三つは軽くのみ込んでしまうほどの容量だった。宴会場の掃除役の使用人たちがおそろしく小さく見える。奥のほうはやや小高い舞台じたてになっていて、本格的な芝居の上演にも十分耐えられそうなたたずまいだった。
 上品な二人の若いほうが言う。
「ここは大宴会場だ。ローマや、かつてはペルシアなどからやってくる使節への饗応だとか、パルミラの有力市民らへのご機嫌とりなんかに使用する。ま、今晩はごく内輪の酒宴なんでな、もっとこじんまりとした部屋を使う」
 そう言って上品な二人は、大宴会場を通りぬけ、そのあとにも二、三の部屋を横切って、確かにこじんまりとした供応の間(食堂)に道化二人を案内した。こうした宮殿には歩廊というものがなく、内部での移動には次々に扉を開けて、続き部屋を通りぬけてゆくのだ。
 食堂の奥はお定まりの中庭に面していて、残りの三方の壁際には三台ずつ計九台の臥台が配置されていた。臥台の一つには先客がすでに陣どっていて、その太った身をだらりと横たえていた。その先客が言った。
「おや、ロンギノス殿、今日はまたお前さんらしくもなく、取り巻き連中を引きつれてのご到来ってわけかい。まぁ今日のところは無礼講ということだから、各自好き勝手なところに寝そべるがいい」
 上品な二人の年配のほうがほろ苦く笑顔を返したので、この男がロンギノスなのだろう。ロンギノスと連れの若者は、先客の太った男の向かいの二台の臥台それぞれに座を占めた。奴隷がそそくさと出てきて、彼ら二人の履物を室内履きにはきかえさせる。ロンギノスの連れの若者が道化二人に向かって言った。
「おい、きみたちもそのへんに、といっても貴賓席(中段の席(中座)。中庭から見て正面の臥台群)は空けておかねばまずいが、どこかそこいらに席をとるがいい」
 そう言う若者のとなりの臥台にクラッシウスとティッティは腰かけた。一人分の臥台に二人して。いかにも下賎の身らしくしおらしく。
 先客の肥えた男が若者に言った。
「おい、プロクルス、その二人は初顔だが、なんかうすぎたねえなりをしてるなぁ、どういう素性の者なんだい?」
「うむ、この二人はローマから流れてきた渡り道化ですよ。この道化たちは我々のことは一切何も知らないのだから、我らがまず名乗りをあげるべきだな。かくいうわたしの名はプロクルス、となりにおられるこのお方は我が哲学の師ロンギノス殿だ。それから向かいの席でさっきからだみ声を張りあげている御仁はヘルメロス殿といって、我がロンギノス殿と同様、妃殿下のご教授にあずかっている御用学者だ」
「ほう道化とな、我が宮廷にもお抱えの道化どもがおるが、また何でそんな野太鼓ふぜいを拾ってきた」
「この道化の一人が面白いからみ方をしてきたんで連れてきたんですよ。そうだきみたちの名前は?」
 奴隷に室内履きにはきかえさせながら、ティッティが答える。
「お前よんなんていうへたなしゃれを飛ばして失礼つかまつったのはクラッシウスというけちな野郎でさ。わたしの名はティッティことティティニアスと申します」
 別の奴隷が食事服を持ってきた。使い捨てのその服を各自めいめい上からはおる。手づかみでむさぼり食らって、べちょべちょぬるぬる汚れた手をそれでぬぐうのだ。
 真ん中に置かれた円卓に次々と前菜が運ばれ、給仕役の奴隷が皆に葡萄酒を注いでまわる。
「およしよ、意地きたないねぇ」とティッティが止めるのもかまわずクラッシウスは、給仕に注がれるのももどかしげに酒をあおった。
「ふぁー、んめぇ、こんな上等な酒は初めてだ。こんないい酒がきゅーっと通ってったひにゃ、真ん中通っていきゃぁがるいばり返って、脇にいる安酒なんざぁあっちへ行っちまえてなもんだ。さすが宮殿に住まうお方はとんでもねえ代物を胃の腑にしこんでなさる」
 ロンギノスが言った。
「だが、巷で喫する安酒もなかなか捨てたものではないぞ」
 プロクルスはうなずいて、
「安酒というのは安酒ならではの風合いをもっている。それが妙に恋しいときがある」
「お歴々はいつもこんないい酒を呑んでいるからこそ、そんなことが言える。そういう余裕たっぷりをぶっこくことを贅沢三昧というんでさ」
 そのクラッシウスの袖を引っぱってティッティが言う。
「およしよ、そういうひっからまった言い方すんのは」
「いや、いいぞいいぞ、クラッシウス、遠慮するな。お前のそういうひしゃげた物言いがいい肴になる」
 とロンギノスが言かけたとき、二人の中年男が侍女に案内されて入ってきた。ひとりは目尻と口元に笑いじわをきざんだ浅黒い肌の男で、ひと目でペルシア人とわかるいでたちだった。もうひとりは真っ黒な肌に明るい瞳がうがたれた一見黒人のような男だった。プロクルスが言う。
「おうこれはこれは、アーブティン殿とアムリトダーナ殿。ようこそお出でで。どうぞ中段のお席へ」
 さらに、プロクルスとそうたいして歳の違わない二人の若い男客がやってきた。ともに挨拶もそこそこにヘルメロスのとなりに席を占めた。プロクルスが彼らに言った。
「なんだ二人とも、ろくに挨拶もせずに。しょうがない連中だ。といったところで、どうやらこれで今宵の宴会の面子はすべてそろったようだ。わたしとロンギノス殿とヘルメロス殿は皆の素性というのは互いにわかっているが、アーブティン殿とアムリトダーナ殿、それにいちばん最後にやってきた礼儀知らずの二人、それから渡り道化の二人は、お互いに初めて顔を合わしているはずだから各自簡単に名乗りをあげてくれたまえ。まず道化の二人からやってくれ」
 ティッティが言った。
「へい、皆さま、ひょんなことからお席をけがすことになった道化のティッティでげす。ここに控えおる相棒のクラッシウスが、乙にからんだ垣根のヘチマってやつで、さいわいそのヘチマを高く買っていただき、それがご縁でごひいきにあずかって、皆さまにあいまみえることとなりました。どうかよろしうにおたのう申します」
 さっきからティッティは、クラッシウスにはなるべくしゃべらせないようにしている。クラッシウスは、給仕の手をはねのけて手酌でぐびりぐびりやっている。
「おい、最後にやってきたそこの二人、名乗るほどの者じゃないってことは先刻承知だが、素性が知れないというのもなんかうす気味わるいから、さあやってくれ」
 とプロクルス。二人の若い客のひとりが言った。
「ちぇっ、いやになりんこちりりんこだ。ひとりでいい子ぶりっこしやがって。えぇっと、わたしらはその、かつてはロンギノス先生のもとで学んだこともある――途中でくじけちまって、優等生のプロクルスに言わせれば落ちこぼれの書生くずれってわけで。私の名はディオゲネス、となりのこの男はアガメムノンといいます」
 プロクルスが言った。
「さぁ、残るは今宵の主賓でいらっしゃるおふた方、どうぞお名乗りを」
 笑いじわのあるペルシア人の男がまず言った。
「あー、わいはペルシアの貿易商人でアーブティンといいます。インディア(インド)商人とパルミラ商人との間をとりもって中継ぎ貿易を営んどります。パルミラへは今回で三度目の訪問だす」
 次いで肌の真っ黒な男が言った。
「わらひ(わたし)はアーブティンさんとは貿易仲間のインディア商人、アムリトダーナといいますだがや。アーブティンさんに連れられてパルミラへやってまいりました。ほんでアーブティンさんにお願いして、このあとローマへも行くだがや。夢のローマだぎゃあ」
 アムリトダーナは、顔をくしゃくしゃにしてほほ笑んだ。歯が真っ白だった。
「へっ、ローマなんて、人間の皮をかぶった人もどきばっかりがのさばりかえる狭っ苦しいだけの掃き溜めさ。庶民でさえただで遊んで食ってのうのうと、軍隊の派閥争いかなんぞで市街戦でもおっ始まりゃあ、こりゃ見ものとばかり下種な野次馬をきめこみ、ある時にはこっちの側を、また別な時にはあっちの側を拍手と喝采でもって応援し、逃げこんできた者がありゃひっつかまえて刺し殺せと要求し、はてはそいつの身ぐるみまではいでねこばばを決めこむ。貴族や金持ち連中ときたひにゃ、命がけの贅沢三昧、美食と房事に我を忘れておぼれ果て、吐いては食べ、産んでは捨ててってな具合に破廉恥をきめこむ。それが夢のローマでさ」
 とクラッシウスがまた一発かました。でも、(ティッティははらはらするだろうが)これがクラッシウス流のちょっとぶきっちょな座持ちなのだ。怒るやつはおこれ、そうでないやつが一人でもひっかかりゃぁいい。そいつが何とかしてくれる・・・かもしれない。
「はは、まあそう言うな。お前はローマのわるいところばかりをあげつらっているが、いいところにも目を向けてもらいたいものだ。それは、わたしがいちいち数えあげるまでのことでもないだろう。アムリトダーナさんは、そういうものにじかに触れてみたいとおっしゃっているのだ」
 とロンギノスがにやにやしながら言った。
「先祖のアガメムノンに誓って言うぞ、おれは吐いては食べ、産んでは捨てなんてことには絶対にならん」
 と、これは落ちこぼれ書生のアガメムノン。プロクルスが言う。
「先祖のアガメムノントロイア戦争におけるギリシア軍の総大将)だなんて、由緒来歴あるギリシア名前をまくらことばみたいにたやすく騙(かた)るんじゃない、ほら吹きめ。なあに、お前は実際は先祖代々生粋のパルミラっ子ではないか。おまけにクリスト教徒だ。まあクリスト教徒なんだからお前が今たてた誓いは本物なんだろうがな」
 ヘルメロスがしかめっ面で言った。
「クリスト教か。近ごろ妙にのさばりだしてきた新宗教だな。まあこのパルミラは来るものはこばまずだから何でもありなんだが、ローマではだいぶ迫害されてるそうじゃないか」
「そうなんですよ。三年前のウァレリアヌス帝による迫害は特にひどかった。帝は去年、ペルシアのシャープール王の捕虜になっちまったが、クリスト教徒にあんなひどいことをしたばちが当たったんだ」
 と勝ちほこったようにアガメムノンが言った。ティッティが言った。
「あたしのような下賎の者でもクリスト様に帰依しておるんでございます。もっともローマではおおっぴらには信者だなんて言えませんが。ご承知のような情勢なもんで」
「ほう、道化の身でも信心するのか?」
 とプロクルスが聞く。
「へい、あたしのナニが信者でしてね。それの影響でまあ、そうなったわけで」
「で、そのナニはローマでお前さんの帰りを待ってるってわけかい」
「いや、そんなしおらしいタマじゃありんせん。いまじゃ、どっか別の男をこさえて鉄砲玉でさ。クリストさんってのもそのなんです、男女の仲のほうではご利益をいただけないようで」
「クリスト、クリストとさっきからうるさいよ。この世にはクリストなんぞはだしで逃げだすような教えがいくらでもあるんだ。だけれどね、その中での頭株といったらわたしの奉じるミトラス様をおいてほかにはない」
 と、もうひとりの落ちこぼれ書生のディオゲネスが言った。
「はいな、確かに我がザラスシュトラゾロアスター)教にもミトラス神はヤザタ神(脇侍神)として君臨しておます。近頃では主神アフラ・マズダーに次ぐ位階を保っとるわいな」
 これはペルシアの貿易商人アーブティンの言。重ねてアーブティンの商売仲間のインディア商人、アムリトダーナが言った。
「わらひの帰依するミイロ(弥勒)様もミトラ(ミトラス)神だということだぎゃ。わらひの王国は今では見る影もないありさまやけど、百年ほど前にはカニシカ王が出られて我がクシャン王朝は全盛をきわめたんだす。王は仏教という新しい教えに帰依してこれを手厚く保護されました。そして、古来より敬われてきたミトラ神が仏教にとりこまれて、わらひらはそれをミイロ様と呼んで深く信奉しておるわけだす。ところが二十年ほど前に、あの憎っくきペルシアのシャープール王の遠征にかかって、我が王国はめちゃめちゃにされてしまったげな。おかげで我がクシャン王朝は滅亡の危機に瀕しておるんだすが、王朝の権威はまだしっかりそのまま護られておるんです」
 プロクルスが言った。
「おやおや、ミトラス神の独壇場といった按配になっちまったね。ことのついでに言っておくが、実は我々の学問にもミトラス神が深く関わっているんだ。我らの哲学思想の大源流であるプラトーン先生がどうやらミトラス教からの影響を受けているってことが、ミトラス教のマギ(祭司)の話で判明している。プラトーン哲学の魂魄がミトラス教の秘奥と通底してるらしいんだ。ロンギノス先生、そのへんのところをちょこっとひとくさりお願いできませんか」
「うんむ、まあなんだ、すべての教えはミトラに通ずといってな、ミトラス神のことを知らないんでは哲学者たる看板を下ろさにゃならん。もともとこの神は、ペルシアやインドあたりで幅をきかせていたらしいんだが、それがだんだんメソポタミア小アジアギリシア、ローマへと広まってきたんだな。そのうちにアイオーン――ペルシアではズルヴァンとか呼ぶらしいが――という両性具有の単一神の化身であるとみなされたり、あるいはその神から産みなされたとも言われておおきに隆盛をほこっておる」

f:id:enrilpenang:20181215111916j:plainズルヴァン(ズルワーン)神像

 クラッシウスが言った。
「なんだい、そのりょうせいぐゆうってのは?」
「男でもあり女でもあるってことさ、あるいは、男ともいえず、女ともいえない存在と言ってもよい」
「じゃあなにか、金玉もおまんこも両方持ってるってわけか?」
「まあ、そうだ」
「ずいぶんと贅沢なんだねぇ。男と女の楽しみをひとりで両方いただけるってことなんだろ」
「いや、いま言っているのは神様の話だからね。一柱の神から産みなされるとなると、神は両性具有でないと具合がわるいのさ。それに神様は決して不完全なものであってはならない。男も女も不完全なものだから、男ともいえず、女ともいえない存在ってのが完全なるものとなる」
アガメムノンにはわるいが、お前の信じているクリスト教ってのは、ミトラス教からずいぶんいろんなものをぱくっているんだぞ」
 と、これは落ちこぼれ書生のディオゲネスの言。もうひとりの落ちこぼれ書生のアガメムノンは憤然として言った。
「いいか、お前が何を言いたいかはちゃんとわかってるんだ。しょっちゅう聞かされてるからな。何をぱくった、かにをぱくったといちいち小うるさくあげつらって言わなくたっていいぞ。いいな、絶対に言うんじゃないぞ」
 プロクルスがからかうような声音(こわね)で言った。
「ほう、なんかの折にちょこっと耳にしたことはあるが、しっかりと聞いたことはない。できることなら、そのぱくりの実態なるものを知りたいものだ」
「ほら、優等生殿がそうおおせだ。どうするアガメムノン?」
「ふん、お前にあることないことごちゃまぜにぶちまけられるくらいなら、自分で語るほうがよっぽどましだわ」
「よ、よ、アガメムノンさん、いいきっぷだねぇ。うっとりするでげすよ。さあさ、おやんなさい」
 と、これはクラッシウス。
「やけのやんぱち、日焼けのなすび、色は黒くて食いつきたいが、わたしゃ入れ歯で歯が立たぬとくらぁ、まずは主イエス・クリストの誕生日――クリスマスからいこうかい、え、ディオゲネス。お前はこれが、もともとは冬至に死んだミトラス神が三日後の二十五日に復活するってことを祝う祭りだったって言いたいんだろ。憎っくきミトラス神の復活の祭りをじゃまするために、あえてそのおんなじ日にクリストの誕生を祝うことにしたって言いたいんだろ」
 アガメムノンがうんざりしたような声音でそう咆哮すると、ディオゲネスが言った。
「どうもまぁ、そうまで開き直られるとこっちもなんだが、まあ、そんな按配だよ」
「東方の三博士による誕生日の予言も、洗礼の儀式も、最後の晩餐も、聖体拝受も、昇天と再臨の予言も、復活の日最後の審判も、アルマゲドンも、みんなミトラス教からの借り物だと言いたいんだろ、え、ディオゲネス
「はははは、まことによじりん坊が揃いもそろったりといった按配だなぁ」
 という声とともに、とつぜん美しい女が現れた。
「遠征帰りの兵たちがこぞって夢中になってミトラス様をあがめるものだから、クリスト様の顔色が近頃はつとにすぐれないってのはわかるが、ここへは一番、アレクシスのごたくも混ぜておやり」
 そう言うと女は、背後に控える禿頭(とくとう)のひょろりと背の高い女装の大入道の手をとって前へ引っぱりだした。
「お前にもいろいろぼやきたいことが吹き溜まっているに違いない、洗いざらいここでぶちまけておしまい」
 アレクシスは長い腕を妙な具合にくねくねさせ、挨拶めいた仕草をしながら言った。
「あ、ふん、みんなさま、あたしがアレクシスざんす。知らない人以外はみんな知ってるってゆう有名人よ。で、ね、あんた方の言ってることをちょこっと戸口で聞いてたんだけど、あんたらの信心なるものは生ぬるいったらないねぇ、あたしらキュベレー信者に比べるってえとね。なにしろあたしらは、アッティスの秘儀でおのが男根を自ら切り落とすんだからねぇ。それで宦官になったってぇわけなんざんすから」
 いきなり現れた美しい女にあわをくってロンギノスが立ち上がり(というより、皆がそうしたが、クラッシウスだけが気づかず)、最敬礼をもって「これはこれは妃殿下ゼノビア様、どうぞ、どうぞこちらへ」と言って、女の手をとって貴賓席(中段の席の左端)へいざなった。妃殿下という言葉を聞いて、さすがにクラッシウスもはっと気づいてあわてて立ち上がった。ゼノビアが言った。
「まあよい、皆そのまま、そのままでよい。話もたけなわ、どうかそのままつづけておくれ」
 クラッシウスは、ペルシア軍の捕虜という身をゼノビアによって救われ、二日の後(のち)の戦勝祝賀パレードにおいて彼女を遠目で見て、その強い眼差しに圧倒されたことがあった。いま、それを間近でつくづく眼にする彼女は、高貴な貝紫で染められたシルクのローブをすらりと身にまとい、それが、黄金やラピスラズリの見事なよそおいとあいまって彼女の内面の清楚さをむしろ強調するかのようにひらりとひるがえる。強い輝きを放つ瞳を惜しげもなく皆にふりそそぎ、真珠のごとき美しい歯並をきらりと見せ、そのさんざめく宴(うたげ)の園に一輪、凛と花の咲くようで、それは妙に胸騒ぎを覚えるたたずまいだった。肌はやや浅黒く、声は低いが澄んでいた。
「だ、男根を自分でちょん切るってのかい、すんげえ物好きもいるもんだなや」
 と素っ頓狂な声でクラッシウスが言った。得たりやおうとアレクシスが言う。
キュベレー神っていうのは、フリュギア(トルコ中西部)あたりで古来から敬われていた大地母神で、それがギリシア、ローマへも伝わって広く信仰されているのさ。そんで、アッティス様というのは、キュベレー女神の産みの子といってもいいわけありの分身神なんざんす。これがまあ、輝くばかりの美しい若者で、キュベレー女神はこの若者――アッティス様をひと目見て恋に落ちてしまったのさ。アッティス様は、キュベレー女神の一途な、あまりにひたむきな愛を受け入れて、その愛をば決して裏切らないと誓ったんだが、若いアッティス様はその誓いを破って別の娘を好きになってしまった。キュベレー女神は怒った。その怒りはあまりにも凄まじく、その憤激にまかせて女神はアッティス様に恐ろしい呪いをかけたのでアッティス様は思わず狂乱し、自らの男根を切り落として死んでしまった。しかしその三日後に彼は復活した。それがちょうど春分の頃で、アッティス様を慕う信者らはその日、その復活をことほいでアッティスの秘儀なる儀式をとり行うようになったのさ。まあ、その秘儀なるものがあたしらキュベレー信者の真面目・・・」

f:id:enrilpenang:20181212134447j:plainキュベレー神像 BC60年頃)f:id:enrilpenang:20181212134319j:plainフリギア 帽をかぶったアッティス像(オルタナティブを考えるブログより引用)

「わかったわかった、で、そのせがれちょん切りの一幕ってのを早く聞かせてくれ」
 とクラッシウスがせがんだ。
「うふん、せかせないでよ、ばか。いまちょうど話そうとしてたんだから。アッティスの秘儀に参列している祭司や信者の有志らは、去勢したアッティス様にならって、おのが男根を自ら切りとってアッティス様と同じ痛みを分かち合うのよ。雄牛が捧げられ、その雄牛のなにも切りとって、祭司や信者らの男根とともにキュベレー女神――大地母神――の聖なる洞穴に供えるの。そのあと、切断された男根は特にありがたいものとして信者の家々に投げこまれ、そのお返しとして、その家の主(あるじ)は去勢したばかりの者たちに女物の装束を与えるのよ。そういう者らの何人かは宦官になるんだけど、このあたしもまさにそういったわけありで宦官になり、いまではこうして妃殿下のお供もつとめさせてもらってるわけ」
 ディオゲネスが言った。
「なんだ、それじゃクリスト教徒が春分の日あたりに大騒ぎで祝っているクリストの復活祭なるものと、それよりはずっと大昔からつづいているアッティスの復活の祝いとは完全にかぶってるじゃないか。クリスト教はアッティスの復活の儀式までぱくって自分らの神の復活祭だとしているわけか。ミトラス教といいキュベレー信仰といい、勢い盛んな流行(はやり)の教えというのはクリスト教徒にとってはよっぽどじゃまっけなものらしいな。頭から抑えこもうと、他宗の祝祭日にもろにぶつけてその日を自分らの神の祝い日へすり替えてしまい、他宗の神の存在の拠りどころをすら、なしくずしにして消してしまおうとしている」
「けどまあ、いろんな意味でなかなかのもんではあるなぁ、クリスト教は。だけど、自分らの神だけしか認めないってところがどうにもぎくしゃくしてるなぁ。ところでロンギノス、ミトラス神を産みなしたアイオーンのことは初耳だが、この神が両性具有ってのはほんとかい?」
 と、ゼノビアが聞いた。ロンギノスが答える。
「ええ妃殿下、本当です。キュベレー女神だってもとは両性具有の神だったのですが、凄い乱暴者だったのでオリュンポスの神々によって去勢されてしまったのです。それで女神になったのです」
 ゼノビアは、なぜかさびしそうにほほ笑んで言った。
「オリュンポスの神々も勝手なもんだなぁ。乱暴者だったのは男の性のほうが強く出ていたせいで、その両性具有なる神がどうせ単一の性にされてしまうのなら、さぞかし男になりたかっただろうに」
「女になれば乱暴がやむと思ったんでしょう」
「ハフーンだ。そんなことわかるもんか。いくら外見は女になっても、その性根は男のまんまなのかもしれないじゃないか」
 宴(うたげ)はそのうち歌舞音曲のほうへと転げだし、宮廷道化や舞姫なども入れ替わり立ち代りし、クラッシウスとティッティの渡り道化二人も、たいして受けないなりにおぼつかない芸でちょいとばかしは面目をほどこし、クラッシウスのほうは腰が抜けるまで呑みあさって、宴会がいつはねたのかもわからぬままに二人はプロクルスに引っぱられて帰路へついた。

 

            ≪しょの6≫

 クラッシウスとティッティには定宿はおろか、住むところのあてもないと知ったプロクルスは、二人をロンギノスの営む哲学塾の塾舎に連れていった。そこはロンギノスに哲学や修辞学を学ぶ裕福な子弟が身を寄せる学寮といったところで、たまたま空き部屋がひとつあったので、そこへ二人を放りこんだのだ。ロンギノスはエサメ生まれのシリア人で、アレクサンドレイア(アレクサンドリア)とローマで学び、アテネで三十年ほど教えていたのだが、ギリシアがゴート人の侵入を受けたのを機にオダエナトゥスのもとに避難してきていた。学問を教授するかたわら、政治顧問のような役割もこなしているらしい。
 学寮でごろごろして数日がたった頃、プロクルスが二人に言った。
「どうだい、きみたちもロンギノス先生の食客待遇ってことになったんだから、先生の門下のふりをして哲学なるものを学んじゃったりしちゃっちゃあ」
 ティッティが言った。
「て、哲学って、何かの神様の教えかなんかをこねくりまわしたりするみたいな?」
「うむ、まあそういうところもあるがな。だが、神さんが教えないようなよじれた思惟の世界をこねくりまわすってのが第一の眼目だ。それと修辞と弁論の技を磨くっていうことも肝心だがな」
 クラッシウスが言った。
「し、思惟の世界をこねくりまわすなんて、そんなわけもわからない大それたことはなしにしましょうや」
「だがな、女の身でありながら熱心に打ちこんでおる方だっているんだぞ」
 クラッシウスが聞く。
「へ、誰なんでその物好きは?」
「妃殿下だ」
「ひ、妃殿下というとあのゼノビア様?」
「そうだ」
 クラッシウスの胸の裡(うち)が微妙にうずいた。そして思わず言った。
「んで、わたしらも学び舎(や)に入れば妃殿下と一緒に講義を受けられるんで?」
「そうだよ」
「や、やりますあたし。こう見えてもあたしゃあ勉学が大好きなんだ。学と酒と名のつくもんなら何でも来いってくらいなもんだ」
 クラッシウスの袖を引っぱってティッティが言う。
「お、およしよ、そんな身の丈に合わないことをやったりすると罰が当たるよ」
「罰でも撥(ばち)でも当ててくれってんだ。おい、ティッティ、なにをそんなにびびってるんだ。当ててくれなきゃ鳴らねんだよ、鳴かず飛ばずになっちまうんだよ。やってやがてのひばりさんてなもんだ」
 プロクルスが言った。
「よし、それならこれで決まりだ。授業料は都合がついたときに払えばよい。明日からでも始めるかい」
「えっ、授業料? そんなもん取るんで?」
 と、これはティッティ。
「当たり前だ。世の中でただなのはこの空気と砂漠の砂くらいのもんだ」
「でもあたしらには稼ぎどころがないんで」
「なぁに、女郎屋や置屋ならいくらでもある。紹介してやるさ。大船にのった気でいるがいい」
 こうして、クラッシウスとティッティとはパルミラで哲学なるものをこねくりまわす段取りとはなった。
 かつてはロンギノスの門下生であった落ちこぼれ書生のディオゲネスアガメムノンの二人が面白がって彼らのところにやって来て言う。
「へぇ、おいお前たち、気は確かか。おれたちだって途中で投げだしたんだぞ。学問の道は果てしなくけわしいんだぞ」
 クラッシウスが言った。
「なあに、哲学道化、学究道化、学問道化ってことでとことん売ってやりまさぁ」
 クラッシウスらが、プロクルスに最初に紹介された稼ぎ場は女郎屋だった。パルミラはローマとインディア、チーナ(支那)を結ぶ東西交易路の一大中継地なのでこの手の稼業は盛んだった。店の屋号はローマン色小町パルミラ店というのだった。本店はローマにあって、帝國属州各地に支店をいくつも展開する大手女郎屋チェーンの一つだった。本店というのは、クラッシウスもローマで見かけたことのある堂々たる大店(おおだな)だった。
 ティッティは言った。
「あーあ、こんな砂漠ん中の街なかで女郎屋づとめに身を落とすとはねぇ」
 クラッシウスが応ずる。
「なに、そんなに捨てたもんでもねえさ。おっしゃる通り、ここは砂漠ん中に咲きほこる花の都だ。花から花へと移り渡って気の向くままに蜜を吸いあげる蜂の気分でお気楽に過ごしてりゃいいのさ」
「ふん、お前は酒さえ呑めりゃそれでいいんだろうが、こちとらはねぇ、花も実もある選りどり見どり見込みたっぷりの繁盛若衆なんだ。一緒にしないでおくれ」
「へい、へい、わかりましたでげす、繁盛若衆さん。これからはそう呼ばしてもらうよ、ね、繁盛若衆さん」
「およしよ、いやみな男だね、ティッティでいいよ」
 そんなわけで、「よっ、大将、どこゆくの、わたしゃお船でバール様(パルミラの主神)参り、お船じゃゆけぬラクダでおゆき、まいりましたよ脚がない、わたしゃラクダが大嫌い、ラクダ楽だの極楽はバール様よりアムター様」ってな軽口をひって、お客のご機嫌うかがいを生業(なりわい)とする日々がその日からついと始まった。アムターというのは、この女郎屋で御職(おしょく)を張っている遊女の名前だ。
 大引け後、そのアムターがティッティを呼んで激しい口調でこう言った。
「わちきはもう嫌、あんなペルシア野郎は! いいかい、今後二度とあんなやつをあげちゃいけないよ」
 そのペルシア野郎というのは、過日ゼノビアの宮殿での宴会に、主賓としてインディア商人とともに招かれていた貿易商人アーブティンだった。
「花魁(おいらん)、入ったばっかの新入りのあたしらにそんなことをおっしゃられても困ります」
 とティッティが言うと
「そんなこと言ったって、あの客を拾ってきたのはお前さんじゃぁないか。そんで、お前さんは今夜のわちきの席を仕切ったんだ。戦場でいえばさしずめ前線指揮官じゃないか」
 宵のうち、新入り道化ならまずやらされる呼び込みをティッティがつとめていたとき、たまたま店先を通りかかったのがアーブティンだったのだ。
「よっ、大商人閣下、今宵はまたけっこうな御機嫌で。どうですおひとつお手軽なところで」
「なにっ、お手軽と言いなはったかいな。甘く見ちゃぁ困るね、えっ、お手重にしてもらおうじゃないかお手重に。懐には銭ががっぽりひしめいてるんだよ。この店いちばんの名花アムターを引っぱり出しに出ばってきたんだから」
 自分が執心の遊女に相まみえるべくいそいそとやってきたアーブティンは、ティッティの顔なんぞ覚えちゃぁいない。自分で拾った客の席持ちは己自分の裁量にまかされるという店の掟にしたがって、ティッティは席を仕切ることになった。ところがアムター花魁にご出陣を願おうとしたところ、花魁はいつになくだだをこねた。
「えっ、あのペルシア野郎かい。嫌なやつの見本ってのがあいつだよ。銭の力で何でも思いどおりになると思ってやがる」
「花魁、そこんとこをひとつあっしに免じてどうか出ておくんなさいな。なにしろ今夜はあっしの口開けの晩で、始まり早々にしくじったとあっちゃ立つ瀬がありません。どうかよろしうに願います」
「そうかい、見かけない顔だと思ったらお前さん、今夜が口開けだったんかい。ほんなら、わかったでありんす。わちきは出るざんす」
 そんな経緯(いきさつ)があったものだから、席がお開きになってもしつこくつきまとうアーブティンを何とか振りきってほっとしたアムター姐さんが、ティッティを呼んでしっかりとくぎを刺したわけだった。
「これで花魁に借りがひとつできました」
 そう言うティッティにアムターが
「ああ、そうかい、ほんなら早速だがその借りを返してもらおうじゃないか。明日の昼ごろわちきの部屋に来ておくれ。そんでわちきを思いっきり笑わせておくれ。気分がくさくさして体が憂鬱色に染まっちまいそうなんだ。腹の底から笑わせておくれ」
 と言った。
「いきなりそう言われても。最近はとんと座敷づとめが縁遠かったもんで、人を笑わせる呼吸のほうもすっかり忘れてしまいました。あ、そうだ相棒と一緒だったらまだどうにかなるかもしんねえ。どうでしょう、相棒のクラッシウスを呼んじゃあいけませんか。二人で掛け合いってな按配で」
「あ、そりゃどうとでもおし。なにしろこっちは笑いに飢えてんだから」
 翌日の昼御前が過ぎた頃、ティッティはクラッシウスを伴って花魁の部屋に行った。
「ごめんなすって、あ、花魁、よろしうにおたのん申します。これなる野暮天が相棒のクラッシウスでござんす。二人でつとめさせていただきます」
 と言ってクラッシウスをつっつく。
「さぁ、花魁に挨拶しろい」
「よろしうにお願いするでげす。んで、ちょいとばかし軽くひっかけるてぇとまた調子のほうも上向くんでござんすが・・・」
「ほほほ、意地きたいが正直でいい。おい禿(かむろ)や、ちょいとみつくろっておいでな」
 軽い肴と酒が運ばれてきて、いよいよ芸をおっ始める段取りがととのった。
 軽く一杯ひっかけたクラッシウスを相手に、まずティッティが前振りも何もなくいきなり始める。
「おれぁまだ生娘とやったことはねえ。あそこんとこのあばた面の娘は、とんでもねえ不細工だからまだ虫はついちゃぁいめえ、よし、やっちまおうってんで、うまいこと娘を誘い出して、ことに及びました。んで、おんや、おめえ、ずいぶんこなれてるじゃねえか。おめえだけは生娘だと思ってたんだが、なあんだそうじゃねえな」
 クラッシウスがしなをつくって
「はい、どなたもそうおっしゃいます」
 とやった。
 ティッティは花魁を盗み見た。うすら笑いを浮かべている。たいして受けてはいない。ティッティは気をとり直して
「大金持ちのお屋敷で働く上女中が、奥様に賃金の値上げを要求いたしました。奥様は女中に言いました。どんな理由で賃金を上げてほしいんだい?」
 女中役のクラッシウスが答える。
「はい、奥様、理由は三つございます。一つ目は、わたしが奥様より上手に旦那様の身の回りの世話をできるからです」
 奥様役のティッティがやんわり問いただす。
「いったい誰がわたしよりあなたのほうが世話がうまいと言ったの?」
「旦那様でございます」
「あら・・・」
「二つ目の理由は、わたしが奥様より料理が上手なことです」
「だ、誰がそんなことを言ったの?」
「旦那様でございます」
「まあ・・・」
「そして三つ目の理由は、わたしが奥様より床上手なことでございます」
「それも旦那が言ったことなのかい?」
「いいえ、庭師が言いました」
 そして、ティッティが締めくくる。
「奥様はちょっとばかしばつがわるそうに、でもにっこりほっこりほほ笑んで女中に言いました。でいくら上げてほしいのかしら・・・」
「ふふふ、あっはっは、あはははは」
 花魁はやっと笑った。でも、腹の底からってほどじゃない。
 ティッティはさらに追いうちをかけた。
「ある学園の授業で、小さな生徒を受け持つ若い女の先生が、自分は無神論者だと告げました。彼女は次に、みんなの中で無神論者がいたら手をあげなさいと言いました。小さな子供たちなので、無神論者というのが何のことかわからず、たいていの子供らは先生に同調して我も我もとうれしそうに手をあげました。ところが、一人だけ手をあげない子供がいました。先生はその子供にどうしてほかの子と違うの、とたずねました」
 へそ曲がり生徒役のクラッシウスが答える。
「だってわたしは無神論者じゃないからです」
「じゃあ何なの?」
「クリスト教徒です」
 ティッティはいくらか不満そうに
「なぜクリスト教徒になったわけ?」
「クリストを信仰するように育てられたからです。それにわたしの母親はクリスト教徒で、父もクキリスト教徒で、だからわたしもクリスト教徒です」
 ティッティはちょっとばかし怒ったふうに大きな声で言った。
「それは理由にならないわ。それじゃぁ、あなたの母親が間抜けで、父親も間抜けなら、あなたは一体何になるの?」
「そうなら、わたしは無神論者になると思います」
 花魁はやっと笑いくずれた。そうして言った。
「飢えを満たすにはまだほど足りんけど、まぁ、腹八分目くらいにはなったわいな。ありがとさんでござんす、ぜひまたやっておくんなんし」
 いつの間にかうじうじと膳にしがみついてぐびぐびやっているクラッシウスを引ったて、ティッティはちょいと見得をきりたいのをちとがまんして、御職花魁アムター姐さんのもとを辞したのだった。

 

            ≪しょの7≫

 翌年の春もたけなわの頃、東方より威勢のよい報せが飛びこんできた。パルミラの太守オダエナトゥスが、本国へ引きあげるペルシア軍の本隊を背後から追撃し、ペルシアの首都クテシフォンまで追いつめて多くの戦利品とハーレムの女までせしめたという。
 パルミラ軍の弓騎兵を中心とするつかず離れずの執拗なゲリラ攻撃に辟易とし、敵に背を向けざるをえなかったペルシア軍が何となく哀れに思える。
 ローマ帝国はいま、ウァレリアヌス帝が捕虜にとられてペルシア軍に連れ去られ、その息子のガリエヌス帝はガリアの防衛と各地で頻発する蛮族どもの反乱の鎮圧に忙殺され、東方への睨(にら)みはほとんどきかなくなっているありさまである。そうしたなかでのパルミラのオダエナトゥスの働きは、帝国にとってはありがた山の寒がらす以外の何ものでもなかった。ローマ皇帝は、オダエナトゥスに全東方諸国の改革者という称号を与えたが、これは帝国の東方総督にも匹敵する地位だった。オダエナトゥスはさらに、自ら、ペルシア王の称号である「諸王の王」をも名乗った。ペルシア人もしきりに往来するパルミラはもとより、オリエント世界の東方諸国をも治める王(もはや太守などではない)オダエナトゥスが、シャープールに対する勝利をあからさまに誇示しようとしたものであろう。かくて、オダエナトゥスの威令はシリアから黒海南岸近くにまで及ぶこととなった。
 そのオダエナトゥスがパルミラに凱旋した。激しい声援の中、列柱道を行進するオダエナトゥスとその麾下の将兵ら、そしてオダエナトゥスのかたわらにはゼノビアがぴったり随伴していた。ともに馬上である。ゼノビアは年明け早々パルミラを発ってオダエナトゥスの軍と合流し、ペルシア軍を追い、追いに追って追いつめぬいたのだ。
 その晩、宮中において凱旋の宴(うたげ)がはられた。だだっ広い大宴会場は人で埋めつくされた。宮廷道化はもとより、プロクルスの引きで二人の道化――クラッシウスとティッティも宴会場にまぎれこんだ。複数人用の臥台が千台以上敷きまわされ、そこに三千人以上もの人間が鈴なりになっている。その連中が、がやがやがつがつ飲み食いをしている図は心あたたまるものなのか、はたまた心胆を寒からしめるものなのかは、それを観照する人間の心根しだいであろう。
 ティッティが言った。
「おい、昔、ユリウス・カエサルが挙行した凱旋の宴には二万台以上の臥台が並んだそうだ。まあ、おれとしちゃぁそんなところは見たかぁねえがな」
 クラッシウスはしっかりちゃっかり、給仕の女奴隷から酒をせしめていい機嫌だった。
 王夫妻――オダエナトゥスとゼノビアは、貴賓席の真ん中に並んで座っている。王のとなりにいるのは、王の甥のマエオニウスで十五歳くらいの体格のいい若者である。ゼノビアのとなりには、オダエナトゥスの前妻の子ヘロデス――十歳くらいのこまっちゃくれた感じの少年――がちょこなんと座っている。この年若い二人とゼノビアとは、ロンギノスの哲学塾でクラッシウスやティッティらと共にギリシア由来のいろんな知識を学んでいる。もともとゼノビアは、ロンギノスを家庭教師としてギリシア語などを学んでいたが、ロンギノスが私塾を建て、より広い視野に立って、より広い分野からより広く人材を集めてよりきびしく育成したいという旨を告げると、彼女はそれにもろ手をあげて賛同し、それどころか自分もその塾の生徒にしてくれとまで言い出し、ついでにヘロデスとマエオニウスにまで誘いをかけて、王家の者三名がうち揃ってその塾で学ぶことになったのだ。
 オダエナトゥスがついと立ち上がった。会場は静まりかえった。彼はやや甲高い声で言った。
「素晴らしき諸君! 諸君に会えてうれしい! 諸君に神の祝福を! このパルミラに神の祝福を! かのローマに神の栄光を! 皆が一(いつ)なる我がパルミラ臣民に神の祝福を、神の栄光を!」
「諸王の王に神の祝福と神の栄光を!」という答礼の叫びが会場からいっせいに放たれ、あたりはどっと沸きかえった。
 オダエナトゥスは言葉を継いだ。
「諸王の王とはペルシア王の称号だ。おれがこうしておおっぴらにそれを名乗っても、ペルシア王シャープールは何も言ってこない。やつはもう疲れはじめているのかもしれん。だが、我がパルミラは決してペルシアとの戦いに手を抜くことはしない。これからもペルシアとの小競り合いはつづくだろうが、みんなしてこのおれを援けてくれ」
 あたりはどっとどよめいた。「おうさ! あたりまえだ。おれの腕の二本や三本、いやさ、おれの金玉でも何でも持ってってくれ」「オダエナトゥス王万歳」「パルミラ万歳」といった叫びがかしこで渦巻いた。
「おい、オダエナトゥスというのは群集をのせるのがうまいな。たいしたことは言ってないのに、みんな熱に浮かされたようになってるじゃねぇか」
 とティッティが言った。給仕の女奴隷相手に戯言(ざれごと)三昧を決めこんでいたクラッシウスは「うんにゃ、こんにゃ、どんにゃもんにゃってか」ってなことを吐きちらして、女給仕に葡萄酒のお代わりを催促した。
「へっ、てめえの頭ん中ぁ、酒がつまってて、その酒が漏れて涙や鼻水や唾んなって出てくるんじゃねえのか」
 クラッシウスが言った。
「酒っくせえ涙なんてのも乙なもんだぜ」
 と、そのうち
ゼノビア!」「ゼノビア!」「ゼノビア!」「ゼノビア!」という叫び声が飛びかい始めた。ティッティとクラッシウスも、知らず同じ叫びを口ばしっていた。
 ゼノビアが立ち上がった。彼女は王家の婦人としての正装はしておらず、清楚な男のいでたちだった。彼女は声をほとばしらせた。パルミラ王家の挨拶の決まり文句を。
「素晴らしきみんな! みなに会えてうれしい! みなに神の祝福を! このパルミラに神の祝福を! かのローマに神の栄光を! みなが一(いつ)なる我がパルミラ臣民に神の祝福を、神の栄光を!」
 「わー」と湧き上がる歓声。ゼノビアはさらにつづける。
「ぼくは王のあとをどこまでもついてゆく。みなもそうしてくれるとありがたい。素直に愚直に我らを信じてほしい。下手な計算は無用だ。計算できる生き方など計算に値しない。どこまでも野放図にこの世を渡りきってやろうではないか」
 「素直に愚直に!」「下手な計算など無用!」「ゼノビア万歳!」「オダエナトゥス王万歳」とあちこちで声があがり、王夫妻は両手を高々とあげてその歓声に応えた。その歓声にまぶされるように、場内に灯りがともった。

 深夜にまで及んだ凱旋の宴の翌日、二日酔いのクラッシウスとティッティはロンギノスの塾を休んだ。そのはずだった。しかし、ゼノビア、ヘロデス、マエオニウスの王家の三名がいきなり二人の寝込みをおそった。
「ほらほらほら、こんなときこそ休むんじゃないよ。表(おんも)は気はずかしいほどの上天気だ。さあ、起きた起きた」
ゼノビア
「ちぇっ、気はずかしいのはこっちだい。こんなところをたたき起こしやがって」
 これはクラッシウス。だがティッティはさすがだった。
「よっ、みな様お揃いで。今ちょうど起きようとしてたところなんですよ。なあ、クラッシウス」
「へい、そうでがす。んでがす。もうすでに起きて立っとります。横向きに」
 ヘロデスがクラッシウスの上掛けをひっぺがした。マエオニウスがクラッシウスの尻をけとばした。ゼノビアが言った。
「宿題はやったんだろうね?」
「へっ、宿題! 宿題なんて朝っぱらから縁起でもねえ。よしておくんなさいよ」
「じゃ、やってないんだね」
 と言って、ゼノビアはクラッシウスの両脚を小脇に抱え、片方の脚をクラッシウスの股間にあてがってぐりぐりとやった。クラッシウスの間抜けな悲鳴があたりに飛び散った。
 王家の三人は、やさぐれ道化二人をどうにかロンギノスの学舎へひきずりこんだ。待ちかまえていたプロクルスが声をかけた。
「よっ、やってきたな。なんだクラッシウス、うかない顔だな。のっけから、わたしゃ半死半生ですってな具合だな」
 ヘロデスが謡うように言った。
「酒でほろびるその身があわれ」
 ティッティが黄色い声で
「チ、チーン」
 とやる。
「なんだい、チ、チーンってのは?」
 とクラッシウス。ティッティが答える。
「鳴り物が入ったのさ」
 プロクルスがみなに声をかけた。
「さぁ、みんな席についてくれ。ロンギノス先生一番弟子のわたしが君ら五人の面倒をみるようになって半年あまりになるかな。そろそろ色よい成果が出てもよい頃だ。んで、先ごろ君らに出した宿題の答えを今日はたっぷり聞かせてもらいたいと思うが、どうかな」
 ヘロデスが自信満々に答える。
「はい、先輩、いつでもどうぞ、さぁどうぞ」
「ふむ、それではまずクレタ人の嘘からいこうか。クレタ島の人であるエピメニデスは『クレタ人はいつも嘘をつく』と言った。クレタ島の人であるエピメニデスがこう言ったのだから、彼のこの言葉も嘘となってしまう。つまり、クレタ人はいつも嘘をつかないってことになるが、そうだとするとエピメニデスの『クレタ人はいつも嘘をつく』という言葉も嘘ではないことになってしまう。これってなんか変だ。なんでこんなヘンテコなことになってしまうのかを可能なかぎり矛盾なく説明せよ、というのが課題の一問目だったが、ヘロデスは自信満々のようだな。ほかの面々で答えられる者はおるのかな・・・ふん、誰もいないようだ。それならヘロデス、やってごらん」
「『クレタ人はいつも嘘をつく』が嘘だとしたら、「クレタ人はいつも嘘をつかない」ってことになるだろうとしてしまうのがそもそも嘘なのです。「いつもAだ」を嘘として否定するには、「いつも」および「Aだ」の両方を否定しなければ完全とはいえません。「いつも」の否定は「いつもではない」であり、「Aだ」の否定は「Aではない」です。これを合わせると「Aではないときがいつもではない」となり、結局「Aではないときもある」となります。つまり、「クレタ人は嘘をつかないときもある」ってことになり、これが『クレタ人はいつも嘘をつく』が嘘だとした場合の結論になります。
 で、「クレタ人は嘘をつかないときもある」というのは「クレタ人は嘘をつくときもある」ってことですから両者は同時に両立していて、クレタ島の人であるエピメニデスが嘘をついたとしても矛盾は生じません」
 パチパチパチとゼノビアが拍手した。次いでプロクルスが、そしてティッティそれに彼にせっつかれたクラッシウス、最後にマエオニウスが拍手した。
「うん、まあそんなところだろう。模範解答としては上出来だ。このクレタ人の嘘をこれ以上ほじくり返そうとすると面倒なことになるんで、ここいらでやめておくのが無難だ。何も無難なほうへ論述をもってゆこうなんてけちな了見ではないんだがな。まあ、説明するのがちょいと億劫だっちゅう、言ってみれば自己都合ってわけだ」
 と、そのときクラッシウスが口をはさんだ
「その『クレタ人はいつも嘘をつく』とやらは、「いつも」を否定するのをど忘れして「Aだ」だけを否定するだけで済ませっちまうというそそっかしさが火種になって話をこんぐらかせているって言うんだろ。だとすると、「いつも」を「すべて」いやさ「皆」に置きかえてもおんなじようなもつれがひきずり出せるんじゃねえかえ。つまり、クレタ島の人であるエピメニデスが『クレタ人は皆嘘をつく』としても、同様な逆説が成り立つんじゃなかろうか」
 ティッティが目をまるくした。プロクルスが言った。
「うむ、よいところに気づいたな。確かにその通りなんだ。そう、いまクラッシウスが気づいた新視点の逆説『クレタ人は皆嘘をつく』は、『クレタ人はいつも嘘をつく』と互いに相似の関係にある。『クレタ人は皆嘘をつく』を嘘であると完全否定するのであれば、「嘘をつかないものが皆ではない」とする必要がある。これは「嘘をつかないときがいつもではない」と相呼応して、両逆説は同様の結論を引き出すことになる」
 ティッティが言った。
「おい、クラッシウス、お前どうしたんだ。体の具合でもわるいんじゃねぇのか。おつむが見なれねえ向きにひん曲がっちまったんじゃねぇかい」
 クラッシウスは答えた。
「おれぁ、物ごとをひっくり返して見たり、裏から見たり、逆さまに見たり、とっかえて見たり、はすっかけに見たりが得意なんだ。それをちょいとやってみただけよ」
 ちょっと妙な間があって、低くやわらかい声があがった。
「課題の二問目はぼくが解いてもいいかい」
 言ったのはゼノビアだった。プロクルスの顔が嬉しげにぱっと輝いた。彼は言った。
「わぉ! 人食いワニが子供を人質にとる話だね」
「そうだよ、人食いのワニが子供の母親にこう言うんだよね。『自分がこれから何をするか言い当てたら子供は食わないが、はずれたら食う』と。さて、子供が助かるためには母親は何と言えばよいのかってのが問題だった」
「うん、その通り。で、何と言ったんだろう?」
「『あなたはその子を食べるでしょう』と言ったんだ」
「で、そのこころは?」
「ワニが子供を食うとした場合、母親はワニがしようとすることを言い当てたのだから食べてはならない。ワニが子供を食わないとした場合、母親の答えははずれたのでワニは子供を食べてもよいが、しかしそこで食べようとすると、結果的に母親の答えは正しいことになるため矛盾にぶつかる。つまり、ワニが何をしようとも自己矛盾してしまい、子供を食べることも、食べないこともできなくなってしまうというのが、この話のオチさ」
 へつらいもあるのだろうが全員が盛大に拍手した。プロクルスが言った。
「まぁ、クレタ人の問題も人食いワニのそれもごく初歩的な論理学上の問いなんだが、二人ともまぁよくやった。言葉尻に惑わされないように、あくまでも冷静に、論理的に、筋道だてて推論していくという習慣をみなが身につけてくれればありがたい。クラッシウスじゃないが、ありがた山の寒がらすってところだ」
 ここで奇妙な具合に点数を稼いだのはクラッシウスだったが、ティッティにはいいとこなしだった。目から鼻へのヘロデス、才幹底知れぬゼノビア。せいぜいティッティの身の丈に合いそうなのはマエオニウスくらいのものだった。マエオニウスというのはオダエナトゥスの兄の息子だが、狩りの腕はめっぽうとび抜けているのに、おつむのほうはちょいとよそ見をしているといった按配だった。
 そのマエオニウスが言った。
「おれは狩りっきゃ能がないと思われてるが、はは、まさにその通りだ。さぁ、こんな辛気くさい語らいはそろそろお開きにして表へ出よう。叔母上、狩りですよ、狩りに行きませんか。ご夫君も出陣されるはずです」
 ゼノビアが答える。
「はは、うん、いいよ、狩りの獲物となる獅子や鹿は、先だってのペルシア軍追討のおりにしこたま仕入れてあるから、数に不足はないだろう」
 パルミラは砂漠の国だから、もちろん、獅子も鹿もいない。そうした動物は、ユーフラテス河の周辺にでも行かないかぎりお目にかかれない。だから、ペルシア軍を追ってクテシフォン(ペルシアの首都)に攻めこんでの帰りなどに、ユーフラテス河周辺の無人の山野に棲息するそれらの動物や大型の野鳥なんかを生け捕って連れ帰るのだ。狩りの場に放って殺すために。
 パルミラのオアシスの周囲には、そうした生き物のための飼育場がもうけられていた。また、ラクダや馬とか羊とか牛のための獣舎や放牧場ももちろんあった。そして別の一角には、穀物、絹織物、なつめやしなどを貯蔵しておくための大倉庫がずらりとたち並んでいた。獅子のような野獣の面倒をみる飼育係としては、ローマでの公共の見世物に供される猛獣の扱いに手慣れたペルシア人を呼んであった。
 ゼノビアの夫――オダエナトゥスはすでに猟場に出て学舎からやってくる一行を待ち受けていた。マエオニウスが真っ先にやってきて、挨拶もそこそこに馬にとび乗った。次いでゼノビア、ヘロデスがあとにつづいた。
 が、クラッシウスとティッティは狩りなどやったことがない。もちろん当然、端(はな)から見学を決めこむ腹づもり。戦場をいくらか渡り歩いたせいで、馬くらいにはなんとか乗れるようにはなっていたが・・・。
 猟場となる砂漠のほうでは狩りが始まっていた。大勢の勢子が動員され、小手調べにまず鹿が放たれた。マエオニウスが歓声をあげて鹿を追った。馬上から矢を射かける。鹿は逃げる。見るまに馬と鹿は小さくなっていったが、マエオニウスの放った第一矢が鹿を逸れると、鹿は方向を反転させてこちらへ向かって駆けてきた。マエオニウスは鹿を追って第二矢を放ったが、今度はそれはあやまたず鹿の首につき刺さった。鹿はどうと倒れた。勢子の一団が息の絶えた鹿を猟場の外へ引きずっていった。獅子の餌にでもするのであろう。
 クラッシウスがぼそりと言った。
「馬ん乗った道化が鹿追えば、これぞまさしく馬と鹿、馬鹿まる出しでいやんなりやのディアナ(狩猟の女神アルテミス)さん、どうか背中をかいとくれ」
 ゼノビアがマエオニウスに言った。
「おいマエオニウス、そろそろ獅子を相手にしたらどうだい」
 マエオニウスはちょっと頬を赤らめ
「へっ、へっ、へっ、それはちょっとごかんべんを。獅子は叔父上、伯母上のご両所におまかせしますよ」
 マエオニウスがびびる獅子狩りは、ペルシアでは盛んに行われているという。オダエナトゥスそしてゼノビアがこの獅子狩りに夢中となり、ここパルミラでもそれが盛んとなった。これは単なる遊びではなく、軍事訓練もかねていた。
 ゼノビアは、簡単な胸甲と兜を装着し、身には紫の地に金糸の経糸(たていと)を織りなした目の覚めるようなアカンサス(葉アザミ)の刺繍のマントをまとってあっぱれ美丈夫ぶりだったが、装備としては軽いこしらえだった。そのゼノビアが合図した。猟場に獅子が一頭放たれた。馬に乗ったゼノビアが猟場に入る。馬は獅子を見てひるむ。ゼノビアが獅子に向けて矢を放った。獅子はゼノビアを鞍上にした馬を追う。その馬は逃げる。どこまでもどこまでも逃げる。獅子はやがて追うのをあきらめる。ゼノビアはたずなをしごいて、獅子にやや近づき、また矢を射かける。それは獅子の耳をかすめる。獅子は憤然としてゼノビアに向かってゆく。ゼノビアは逃げる。逃げながらもふり返って背後から追ってくる獅子に矢を射かける。あのペルシア軍がパルミラ軍にさんざんにいたぶられたパルティアンショットだ。いまのペルシア帝国が興るより前のペルシアの盟主パルティア王国の弓騎兵に代表される、逃げると見せいきなりふり返りざま一撃をくらわせる一撃離脱戦法で、そうした軽快戦法は今のペルシア軍にもひき継がれている。ペルシア王シャープールは、ローマ軍との戦闘のために重装備の歩兵・騎兵を主軍とする軍勢をひきいざるを得なかったため、本来、自分らが得手とする弓騎兵による軽快戦法を思うように発揮することができず、パルミラ軍にはひどくてこずった。母屋をパルミラにのっとられたかっこうだ。これらの騎兵部隊には馬はもとよりラクダも用いられた。

f:id:enrilpenang:20181212194852j:plain正倉院の四騎獅子狩文錦に描かれたパルティアンショット(7世紀後半) ササン朝ペルシャ226年 - 651年)の銀器浮彫などにみえる帝王狩猟図の伝統を忠実に伝えている
 ゼノビアは猟場を出た。下馬したゼノビアをオダエナトゥスが出迎えて、二人は軽く抱き合った。オダエナトゥスはヘロデスに言った。
「マエオニウスは獅子が怖いとぬかしおったが、お前はどうなんだ。あの獅子の息の根を止めてみんか」
 ヘロデスは大仰に驚き、
「うゎ、うゎ、うゎ、うゎ、いきなりこっちへきましたか。いや、わたしはまだ十歳なんですよ。わたしを殺すおつもりですか。大事な跡とりを亡き者にするってんですか。せめて十五歳になるまで待ってください。それまでには何とかしますから」
「情けないことを言うな。ここなゼノビアを見ろ。十五の歳にわしのところに嫁いできて、五年もせぬうちに、おなごの身でありながらそのへんの屈強な兵などは及びもつかん勇猛な兵士になりおった。それから三年、お前たちもいま見たとおり獅子狩りなんぞも手馴れたものだ。ちょっとは見習ったらどうだ」
「でも、伯母上は別格ですから。伯母上とくらべられるのは、ディアナ女神と張り合えってのと一緒ですから」
 クラッシウスが小声で毒づく。
「へっ、ヘロデスってやつは口で狩りをするってぇタマだ」
 ゼノビアがオダエナトゥスに言った。
「王よ、あなたの出番でしょ。どうせそのつもりだったんでしょうに」
 オダエナトゥスは
「うむ、そうだな」
 と言って右手を高々と上げてから、豪華な羽根飾りのついた頑丈そうな兜、防護袖、胴当て、佩楯(はいだて=膝よろい)、脛当てによる重装備で身を固め、盾と槍を手に猟場にゆったり突入した。最前ゼノビアと追っかけっこを演じた獅子は、今は地に伏せてやすんでいた。オダエナトゥスは一歩ごとに膝を盾へぶつけて音をたてながら「オーレ、オーレ」と叫んで獅子に近づいていった。獅子に盾を向けて彼はひざまづいた。獅子はぐわっと吼えて前足で盾に強烈な一撃を加えた。と、その刹那、オダエナトゥスは獅子のふところめがけて渾身の力で槍を突きたてた。心臓に深々と突き刺さったそのひと刺しで勝負は一気についた。

 

            ≪しょの8≫

 狩りはその後もつづけられ、歩兵部隊と騎兵部隊による集団狩りも挙行された。多くの獅子や鹿がほふられ、兵士だけでなく馬、ラクダの負傷も相ついだ。ティッティもクラッシウスも、もう沢山だ、もう飽きあききりりんこよという頃、ファンファーレが鳴り響いて、狩りはやっとお開きとなった。
 二人は、砂漠の猟場をあとに、パルミラの市域をぐるっと囲う周壁の東門から街へ入り、いきつけの食堂で昼食をとった。無論もちろん、食前の麦酒を頼むことは忘れなかった。
 その頃、宮城へ戻ったゼノビアとオダエナトゥスは、夫妻専用の豪華な浴場で汗を流していた。浴場は、いちおう女性用、男性用と分かれていたが、もちろん夫妻のほかに入ってくる者はおらず、そのつもりならば行き来は自由だった。それぞれに冷水、熱水、温水の浴室があり、蒸気風呂もあった。
 男性用の冷浴室でほてった体を冷やしたあと、二人は温浴室に移動した。床はモザイク、アーチ形の天井は漆喰に描かれたユーフラテス河岸の風景画、そして壁には獅子狩りの図が描かれていた。そこには通常の浴室よりもずっと広い浴槽が設けられていた。薔薇や蘭などの際立(きわだ)ちのよい花々が浮かんでいる。ゼノビアは浴槽に飛びこみ、すいすいと泳いだ。オダエナトゥスも飛び込み、彼女のあとを追う。逃げるゼノビアをあっさりと捉えた王は、彼女を抱きすくめる。ゼノビアの褐色の肢体と、オダエナトゥスのたくましいがなぜか白い『がたい』がひっからまる。水の中での、これがほんとの濡れごと。ねばっこいしぶきがあがる。はねが飛ぶ。
 二人は浴槽を出て、厚い敷物をしいた青銅製のベンチに横たわった。ひとりのときには奴隷に塗らせるオイルを、いまは互いに塗り合いっこしている。あやしい息づかい。「あ」、「う」・・・。互いの視線がねばっこくひっからまる。それから、当たり前の情事というにははばかりがありすぎる、それだけじゃすまされない、筆にするのも遠慮したくなるような艶景がえんえんと繰り広げられた。
 やっとそのねやごとが一段落して、二人は脱力・困憊の極をたゆたう。
「ああ、オダちゃん」
「おお、お前」
「死んじゃいやだよ」
「うむ」
「ぼくの命」
「我が炎」
 ふたりはまた互いにかぶりつく。外からのあえかな明かりが消えいりそうになるまで。

 クラッシウスとティッティは昼食を済ませたあと、ローマン色小町パルミラ店への勤めに出た。
 暇な夜だった。二人は暇をまぎらわすために呼び込みに立っていた。暇ついでにティッティがふと思いついたようにクラッシウスに言った。
「おい、このあいだアムター姐さんのところで姐さんを笑わせようってんで、無神論者のネタをやったろ」
「ああ、母親も父親も間抜けだったら、その子供は無神論者になるってやつか」
「あれなんだがな、あれって、端(はな)は両親がクリスト教徒だから、その子供もクリスト教徒になるってことだったはずだよな」
「あいあい、そのはず、そのはずかしのはずの宮」
「先だってのプロクルスの授業で、おめえはクレタ人の嘘の問題で妙な具合に点数を稼いだもんだったが、この無神論者のネタでも似たようなことが吹けるんじゃぁねえかい」
「そうかい、お二かい、おせっかい」
「だからよう、両親がクリスト教徒でかつ間抜けだとすれば、子供はクリスト教徒になっても無神論者になってもいいんじゃね。あるいはだ、クリスト教徒にも無神論者にもならねえ、いやさ、なりたくもねえって選びようもあるかもな」
「うへぇ、ティッティもしつこいねぇ」
「クリスト教徒の両親と間抜けの両親をおのおの別個に強調して、両者はさも別の人間であるかのように思わせているが、なあに、両者はおんなじ人間でクリスト教徒でもありかつ間抜け、つまりクリスト教徒の中にだって間抜けがいるんだってことにすりゃいいんだ」
「言わぬが花の微笑み草。お前さん、とうとう言っちまったね」
「えっ、何を言っちまったんだ?」
 という声が脇でした。クラッシウスがそっちを見ると、声の主はプロクルス、それと彼の師のロンギノスが一緒に立っていた。場所が場所だけに、プロクルスが面映(おもはゆ)そうに言った。
「なに、まぁ、たまにはおそそ(女陰)分けを願わないと体にさわるんでな、まぁ、それでこれなる里へ来たわけだ。よろしく頼むよ」
 クラッシウスが言った。
「へい、ひもじいときのまずいものなしなんてんで、変てこりんなタマをまわすなんてことは金輪際いたしませんから、安心なすっておくんねぇ」
 言葉の最後は妙に気ばったが、小さく屁がもれた。
 プロクルスが言った。
「ところで、ティッティはいったい何を言っちまったってんだね?」
 クラッシウスが、ティッティがいましゃべくった無神論者のひとくさりを繰り返すと、プロクルスが言った。
「うん、確かにその通りなんだ。君らは浮世の道化だけあって、そういった見えすいた目くらましにはかかりにくいようだね。とは言っても、そんな屁理屈をたれるのは野暮ってなもんで、両親が間抜けであることに軽く絶望するってことを強調した笑い噺なんだろうがね」
 さて、その夜の主役殿は、おお、なんとロンギノス先生だった。なんせ、店が暇なのをいいことにとっかえひっかえ三人の花魁と枕を交わし、出どころ不詳な説経節らしきものを唱えながら裸踊りを披露するに及んでは滅法八方顰蹙(ひんしゅく)をかい、おまけに揚げ代金を半分にまけさせた。
「ぷはー、たまげた。教師ってのは助平が多いってのは聞いていたが、まあ、その生き証人ってところだな」
 店からの帰りの途次、ティッティがそう言って路上の石をぽんと蹴った。後ろをふり返ると、クラッシウスが怪訝な顔つきでつっ立っている。その彼が言った。
「おい、なんか赤ん坊の泣き声がしねえか?」
「赤ん坊?」
「ああ」
 耳をすましたティッティが
「おい、あの祠(ほこら)んとこじゃぁねえか」
 と言った。
 店の斜め向かいにあるミトラス神の祠のあたりから、確かに赤ん坊の泣き声らしきものが聞こえる。二人はそこへ飛んでいった。粗末な産着にくるまれた赤子が確かにいた。ほとんど泣く力もなく、ひぃひぃむせんでたよりなく手足をばたばたさせていた。クラッシウスは思わず赤子を抱きあげた。
 ティッティが言った。
「おい、おめえ、元に戻しときねえ。変に仏心をたたき起こすと、あとで収拾がつかなくなるぞ」
「だっておめえ、見ねぇ、動いてるぞ」
「そりゃ動くさ。おめえ乳はどうするんだ」
「なぁに、乳ぐらい何とでもなるさ。ほら、おめえのいいひとのアムター姐さんにでもかけ合ってよ」
「よしねえ、いいひとだなんて。おれたちゃそんなんじゃねえ」
「そんなんじゃなくとも、あんなんじゃなくてもとにかく頼むよ。頼み頼まれ頼母子講、あんさん無尽でお金持ち、ついでに子持ちにやっかい持ち、うわっ、しょんべんしやがった。こりゃわちきの危急存亡のとき、あんさんわちきを見捨てる気かい」
「ってやんでぇ。ともかくしょんべんの手当てだけでもしてやんなきゃなるめえ。店の裏口からそっと中へ入ろう」
 二人、いや三人は裏口へまわり、こっそり店内に入った。
「おや、子持ちの道化とは恐れいったね」
 という声がいきなりした。ちょうど裏梯子を降りてきたアムター花魁だった。
「うひょー、このがきゃあついてるぞ。つきも身のうち、月夜の桜、散らざぁなんとかつながる命だ、あ、花魁、どうです、かわいいでげしょ」
 とクラッシウス。
「どこで、どうしたんだいそんな場違いなものを」
「へい、ついそこのミトラス様のなにで泣いてたんで」
「捨て子かい。ちょいとお寄こし、さぁ早く」
 クラッシウスは赤子を花魁に手渡す。
「おーよしよし、って、みんなこんなときにゃこうなるのさ。おーよしよし、おや、お下(しも)がびっしょりじゃないかね」
 と、花魁、血相を変えて裏梯子を駆け上がり、廊下をどたどたつっ走って自分の部屋へまっしぐら。
「おい、何なんだい、あれぁ」
 とティッティ。
 しばらくは時がとまって、やっとこさクラッシウスが言った。
「とりあえずは寝に帰ろうじゃねぇか」
 店を出てのろのろ歩き出す二人の背を、いま明けそめし日の光がそっと押した。
 赤ん坊は、さすがのアムター姐さんでも引きとりかねた。むかし、子持ち花魁なるものがこの里にはいて、けっこうはやったもんらしいが、そんな酔狂ごともこのご時勢では不発に終わって、結局、赤ん坊はクラッシウスにおっつけられた。
 赤ん坊を学舎に連れ帰ると、ひと騒動がもちあがった。まずロンギノスが「赤子はだめじゃ。うちは託児所ではないんだからな」とのたまい、プロクルスは「なんだ隠し子がいたのか」と囃(はや)したて、マエオニウスは「獅子の餌にでもしたらどうだ」と人に非ざることを言い、ヘロデスは「人買いを知ってるから紹介しようか」ともちかけた。まったく人でなしばっかりだったが、ここにはゼノビアもいた。彼女が赤子を抱(いだ)くその姿は、ちょっとクリスト教の聖母のようだった。馥郁(ふくいく)とよい香りの時がたゆたう。周りの者らはひとしきり言葉をなくした。
 赤子はゼノビアによって宮中に入れられ、オダエナトゥスとの対面を果たした。オダエナトゥスは、ゼノビアのもつ宿命的な苦悩――子がなせないという致命的な苦しさをよく理解していたから、赤子ができたことを素直に喜んだ。ゼノビアは痛々しいほどに赤子を溺愛した。オダエナトゥスは相好をくずして赤子を盲愛した。溺愛プラス盲愛はその子を彼ら自身の実子となし、ヘロデスの弟として育むという御伽噺(おとぎばなし)のようなめでたしめでたしな結果を生んだ。それはローマへも正式に通達されてしかるべき形で承認された。赤子はワーバラトと名づけられた。
 あっぱれ赤子を拾った道化二人は、宮中への出入りおかまいなしの特権が保証されたが、せっかくの妃殿下じきじきの宮廷道化への推挽の話には、二人はとんがりがんとしてのらなかった。クラッシウスの「うへっ、それだけはごかんべんを」の一声でその申し出はあっさり闇に葬られた。

 三年ほどがまたたく間に過ぎ去り、ティッティとアムターの仲があやしいなんていう噂がたったりする中、あのペルシアが、またぞろぶったくりの虫抑えがたく蠢(うごめ)き始めた。恒例の西征――メソポタミア、シリア(気が向けば小アジアまで)への征戦――に乗り出してきたのだ。略奪が主な目的なのだが道々狩りを楽しんだりして、けっこう物見遊山的なところもある野放図な遠征だ。
 ペルシア王シャープールとパルミラ王オダエナトゥスは幾度も干戈をまじえ、おおむねオダエナトゥスが優勢のうちに推移はしていたが、しかしそれは本格的な会戦に勝ったというのではなく、執拗なゲリラ攻撃によってシリアへの侵攻をくい止めたり、撤退するペルシア軍を追撃して苦しめるといった戦いぶりだった。
 で、パルミラ側もペルシア側の動きに合わせてペルシア討伐に立ち上がった。メソポタミア方面への出征である。オダエナトゥスのかたわらにはもちろんゼノビアがよりそい、勇猛忠節なザブダス将軍が実質的に軍を統括するといった陣容だが、ゼノビアの智謀は今では、ここぞというときのあっぱれ参謀役に欠かせないものとなっていた。部隊には従軍女郎のような婦女子もいて(従軍女郎の揚げ代金は倍だったので、けっこう志願者が多かった)、彼女らを運ぶための小奇麗(こぎれい)な箱馬車も随伴したが、ゼノビアは馬車は用いず騎乗を通し、時には歩兵らと共に徒歩行軍することもいとわなかった。
 この三年間で身も心も充分なまっていたクラッシウスとティッティは、久方ぶりの従軍道化としてザブダス将軍の麾下に納まることにした。そしてなんと、ティッティのいいひととして通っているアムター姐さんが、従軍遊女をたばねる頭として加わるというおまけまでついた。ちなみに、これは軍の常識だが、従軍道化や従軍女郎といったやわらかい稼業につく民間人というのは、あくまで裕福な将軍らが私的に雇用したり、契約業者によって部隊へ派遣されるのが常道であって、決して軍自ら傭役(ようえき)したり徴用するものではなかった。

 

            ≪しょの9≫

 このたびの戦闘においてちょっとびっくりしたのはラクダ重騎兵による戦いぶりだった。馬のほうが小回りがきき、砂漠でも想像以上に速く疾走できるのでこれを駆使して、これまではどうしても弓騎兵のような軽騎馬兵によるゲリラ戦を中心に陣立てを行ってきたのだが、オダエナトゥスは新機軸として、これまでは避けてきた会戦、特に砂漠におけるそれに挑むつもりで重装備の歩兵と騎兵とを拡充させ、特にラクダを用いた重騎兵の投入を用兵の目玉とする戦いを試みた。
 ラクダは馬に比べてより重い重量の荷物に耐えられるから、二人乗りや大量物資の輸送にも使え、また飢渇にも強いという利点があるため行軍がより迅速におこなえるという有利さのほか、背高が馬よりもだいぶ高いので高位からの攻撃が可能という長所もあり、これに重装甲をほどこせば砂漠での会戦にはうってつけ・・・というのがオダエナトゥスの読みだった。ただ、気まぐれで気性が激しく扱いがむずかしいという難点はあったが、砂漠の民であるパルミラ人はその弱点もおおむね克服した。
 そのラクダ用兵の戦略はまさにどんぴしゃで、シリアのアンティオキアへ進軍中のペルシア軍をさんざんに打ち破った。
 この戦闘中、オダエナトゥスの騎乗する馬に矢が当たり、彼は落馬した。それを見た馬上のゼノビアが馬を飛び降りて彼のもとに駆け寄り、救助にあたろうとした。と、そこへ敵の騎兵が襲いかかり、槍を突き出した。それは身をもってオダエナトゥスをかばっているゼノビアの腕に突き刺さった。彼女はたいへんな剣幕で大太刀をふるってその敵兵を切って落とした。オダエナトゥスは落馬したとき、こぶし大の石に頭を激突させ、失神していた。ゼノビアは半狂乱になって夫の名を叫び、味方の兵を呼集すべく手持ちのラッパを吹き鳴らした。夫の頭の傷口を舐めた。
「オダちゃん! こんな怪我ぐらいなんだい、首落っことしたってびくともしないって言ってたじゃないか、しっかりするんだ」
 本陣に収容されたオダエナトゥスが治療をうけ、息を吹き返したとき、彼の手を端(はな)っからずっとオダエナトゥスの枕辺にはりついていたゼノビアがじっと握っていた。彼は彼女に言った。
「お前も傷を負ってるではないか」
「大丈夫だよ、もう手当てしたし。こんな傷くらい毎日してるさ」
 オダエナトゥスのつぶらな瞳が涙でくもった。彼はゼノビアの首を抱きしめた。彼女が悲鳴をあげるくらいきつく。二人は互いの涙を舐めあった。

 ペルシア軍は、アンティオキアに至ることなくついに撤退した。パルミラ軍はいつものようにゲリラ部隊を繰り出して追撃した。シャープールにひきいられたペルシア軍はほうほうのていで首都(クテシフォン)に逃げ帰った。オダエナトゥスとゼノビアの圧勝だった。
 パルミラへの帰還の途上、兵士らは獅子や鹿を追い、それらを殺しあるいは連れ帰るために捕獲した。勝ち戦(いくさ)だったので、従軍道化も従軍女郎も心づけ、玉代をたっぷり稼ぐことができた。それに、ペルシアのシャープールもしばらくはおとなしくしているだろう・・・てんで、万事めでたしめでたしの首尾の松と言いたいところだったが、浮世っていうやつぁそうは問屋がおろさない。戦場での負傷の癒えたオダエナトゥスがミトラス教にいれ込んでしまうという椿事が出来したのだ。
 それにはもちろん理由があった。せめぎあう愛・・・という理由が。
 その夜、戦勝の快感にひたって、王夫妻は激しい愛の交歓を繰り広げていた。そこでは、雄どうしがつがっていた。ゼノビアが雄としてオダエナトゥスの背後から愛を注入していた。ゼノビアもオダエナトゥスも男色者であり、かつゼノビアは女陰をもそなえた両性具有者だった。もちろん、オダエナトゥスがゼノビアの背後から『彼』を愛することもあった。かつオダエナトゥスは両刀遣いだったから『彼女』としてもゼノビアを愛することができた。
 そんなゼノビアにとって、ミトラス教と共に盛んになりつつあるキュベレー信仰の本尊キュベレー女神は他人とは思えなかった。女神はもともと、主神ゼウスが夢の中で流した精液がアグドスの山にしたたって産まれた両性具有の神アグディスティスであった。この神はとほうもない乱暴者であったため、手をやいたオリュンポスの神々は彼を酔いつぶさせて眠らせ、その男根を髪の毛で綯(な)った縄でもって松の木へ縛りつけてしまった。目覚めたアグディスティスは、暴れにあばれて自らを去勢してしまい、キュベレー女神となった(この女神はアグディスティスと同一視されている)。アグディスティスの男根からは、縁あってさる美しい処女の腹を借りてアッティスが誕生し(アッティスはだからアグディスティスの子供)、彼はやがて成長して美しい青年となった。あるとき、キュベレー女神(アグディスティス)はこの青年をひと目みて恋に落ちた。青年は彼女の愛を受け入れ、夫婦のきずなを契ったが(つまりキュベレー女神(アグディスティス)は自分の子供を夫にしてしまった)、よくあるようにその誓いは反古にされ、彼は綺麗なニンフの娘に出逢ってこれに夢中となり永遠の愛を誓った。嫉妬に狂ったキュベレー女神は怒りにまかせてニンフを殺してしまい、これを知ったアッティスは狂人となって自らの手で去勢をしたのち、自らを八つ裂きにして死んでしまった。死後3日目に「宇宙を統一する最高神」として彼はよみがえり、彼の体より流れ出た聖なる血潮はあまたの地上の罪を贖(あがな)った。
 ゼノビアは、自分と同じ両性具有のアグディスティス(キュベレー)が自分の似姿であるかのごとく、オダエナトゥスが、キュベレーの夫であるアッティスの似姿であるかのように信じようとした。そこへふってわいたようにクラッシウスが捨て子を持ち込み、その子を我が手にひきとって自身の実子になおすという事態が生じた。そのゼノビア(アグディスティス)の子供――ワーバラトと名づけられていた――とはまさに、アグディスティスの子供でもあるアッティスそのものではないか。「我が君(オダエナトゥス)契る千世の若松」といきたいところではあったが、その君(オダエナトゥス=アッティス)は、キュベレーの愛を汚したことがあるというのがゼノビアの気がかりだった。
 ゼノビアはワーバラトがミトラス神の祠に捨てられていたのを思いだした。ミトラス神はアッティス神と同様、フリギア帽(先の曲がった三角帽)をかぶった美しい若者として彫ら(描か)れ、両神の顔はわざとのようにうりふたつだ。アッティスは去勢神であり、ミトラス神のほうも、彼が今まさに屠(ほふ)ろうとしている牡牛(ミトラス神はこうした牡牛とのセットで彫ら(描か)れるのが常だった)の性器がサソリのハサミによってまさにちょん切られそうになっている。両神は去勢のことで明らかに通底している。ミトラス神とはまさにアッティス神の似姿(あるいはその逆なのかもしれないが)なのだ。

f:id:enrilpenang:20181212104100j:plainミトラス神浮彫 2-3世紀 (ルーヴル美術館

 ミトラス教は、軍人らにはもともと根強く人気があって信者もたくさんいる。武人オダエナトゥスの守り神とするにはもってこいだ。オダエナトゥスも心中ではミトラス神に親近感を抱いているのではないか。
 そうだ、これからは最愛のオダエナトゥスとワーバラトの未来を託すのはこのミトラス神にこそあれかしと、ゼノビアはこのとき悟った。オダエナトゥスにも話した。もともとこの男は、戦(いくさ)に臨まねばならぬ一朝有事の際、兵士らと共にミトラス神に武運を祈るのが常だった。それはミトラス教に帰依しているというより、いわば臨戦時におけるしきたりのようなものだった。そうした戦時における習慣もあずかって、彼はゼノビアの申し出には一も二もなく強くうなずいた。
 パルミラでは古くからバール神が天神(主神)として君臨していたので、ミトラス様はバール神の脇侍神としてパルミラ王家の行く末を見守ることとなった。オダエナトゥスはさっそく、我が国が護り参らせる法灯はミトラス教でこそあれかしと国民の前でその旗幟(きし)を鮮明にした。
 敬愛おくあたわざる我らの元首が信じ参らすというんで、パルミラ市民にはミトラス教に改宗する者が続出し、おかげでパルミラの街中がミトラス教一色に染まったようになってしまった。ミトラス教にはどうも、はやり病(やまい)のような感染力があるみたいだった。
 ローマのほうでもミトラス教は猛威をふるっている様子で、「キリスト教とのいさかいが日々絶えない」とミトラス信者であるディオゲネスがプロクルスにこぼした。ディオゲネスにしてみればミトラス教がはやるのはうれしいが、そのために他宗、特にクリスト教との軋轢が深まるのは避けたいようだった。
 その危惧はまさに的中した。オダエナトゥス王が暗殺未遂の憂き目に遭ったのだ。犯人は、クリスト教徒でおちこぼれ書生くずれのアガメムノンだった。クリスト教とは不倶戴天の敵、国教もどきにまで祭り上げられたミトラス教のあまりの羽振りのよさにかっかーっと頭に血がのぼり、王こそ憎しと思わずしでかしてしまったこの悪友の予想外の暴挙にディオゲネスはうろたえ、かつての学友プロクルスに泣きついた。「アガメムノンを救(たす)けてくれ」と。
 プロクルスはゼノビアに、ゼノビアはオダエナトゥスに泣きついた。このディオゲネス、プロクルス、ゼノビアの泣きの三重奏はどうやらいい首尾の音(ね)を発したようで、アガメムノンは死罪をまぬかれ、ところ払いということになった。たまたまペルシア商人のアーブティンとインディア商人のアムリトダーナが国へ帰るというので、彼らにアガメムノンの身柄を託し、この男が遠からず遠きインディアの地で頭を冷やして新しい教え――アムリトダーナの信奉するミイロ(弥勒)様――これもミトラ(ミトラス)神なのだが――にでも改宗するのをのんびりしばし待つこととなった。
 そんなこんなのうちに二年の歳月があわただしく過ぎ去った。マエオニウスは二十歳(はたち)、ヘロデスは十五歳となった。オダエナトゥス、ゼノビアそれと道化二人も相応に歳をとったが、ゼノビアが美の階段を一気に駆け上あがり、凄艶とでもいいたいほどの艶(なまめ)かしさを放つようになるにつけ、彼女の周囲がちょいとばかし落ち着きを失う仕儀におちいったことをのぞけば、まあ何ということもない年月なのだった。
 が、最後の最後になって、そうはいかぬのイカの何とかがずいっとしゃしゃり出てきた。それは、砂漠のある日にしては妙にのどかでうららかな小春日和、狩り日和のそんな日の出来事だった。
 オダエナトゥスと彼の前妻の子ヘロデス、甥のマエオニウスの面々が、やる気満々でくつわを並べた。マエオニウスはもちろんばりばりの狩りマニアだったが、十五歳になったばかりのヘロデスも近頃は砂漠の民の血が騒ぐのか、狩猟の妙味に目覚めてしまい夢中になって鹿やハイエナを追っていた。マエオニウスは今では獅子狩りも好んでするが、ヘロデスのほうはまだちょいと怖いようだった。ザブダス将軍をはじめとする狩り自慢の家来衆も参加して、狩りがいよいよ始まった。
 一番槍は、インパラをしとめたマエオニウスだった。彼は鼻高々だったが、これがいけなかった。彼は、オダエナトゥスが一番槍にことのほかこだわる男だということをあまりに軽く見ていた。オダエナトゥスに一番槍をとらせねばならぬというのは、前途での吉兆をいっそう確実にする、つまりげんをかつぐうえでの重要な公認の儀式なのだった。それをふいにされて、オダエナトゥスはマエオニウスをきびしくとがめた。が、マエオニウスは性懲りもなくまたもや同じ過ちを繰り返した。オダエナトゥスは激怒した。マエオニウスの馬を奪うと、彼をひっ捕らえて馬小屋に監禁してしまった。砂漠の民の間では、馬を奪われてしまうのは明らかに大いなる屈辱のしるしだった。監禁が解けたあとも、三ヶ月間は狩猟禁止という罰がマエオニウスに下された。
 この屈辱と禁猟とは彼を大いに苦しめた。それでなくともワーバラトという世継ぎの子が、今ではかわいい盛りの五歳ほどになって宮中を駆けずり回っている。オダエナトゥスの兄の子であるマエオニウスにしてみれば、長子相続の原則からすれば自分こそが王位を継いでしかるべきという不満がくすぶっている。
 その夜、マエオニウスがいつものように深酒を過ごしていると、彼と仲のよい宦官のアレクシスがさも偶然室外を通りかかったみたいな風情でふらりと入室してきた。
「おや、マエちゃん、今夜も酒かい。能がないねぇ。ねぇあんた、あんたの人品のほどってのは見え透いててわかりやすくていいんだけど、そんなガラス越しででも性根がうかがい知れちゃうようじゃとても人の上には立てない。さりながら、王位などというものは人品や器の大きさなどよりも血筋・毛並みの良さのほうがずっとものをいい、それを持ってはばからぬ者が即位するのが本筋よ。あんたはオダエナトゥスの兄上の子なんだから、あんたが王位を継いだっておかしくはなかったんだ。あんたがまだ幼いというんで一時預かりの形でオダエナトゥスが王位に登ったけど、それがなしくずしにずるずるとあとをひいて今じゃ誰もあんたのことを思いだして、あんたの腰を抱えて王座につかせようなんていう物好きはいなくなってしまった。もっともそんなふうになったのは、オダエナトゥスという男がたいしたタマで、ペルシアには負けないし、ローマに対してももいい顔を保ってるってのが歴然としてあるからなんだけどね。
 それでね、あんた、思い切ってやっちまえばいいんだよ。オダエナトゥスを亡き者にしちしまうんだ。ヘロデスもついでにね。そうすればおのずと王位はあんたのもの。あとのことはこのあたしにまかせてさ、ひとおもいにやっておしまいよ」
 この悪魔のささやきにマエオニウスはのった。同調者を語らって暗殺集団を急造し、ある酒宴の席上でオダエナトゥスに襲いかかって王を刺し殺してしまった。同席していたヘロデスも手にかけた。ゼノビアは何かの用向きのせいでこの席にはのぞんでいなかった。マエオニウスは、暗殺者の一味にかつがれて王を名乗った。
 事態を知ったゼノビアは、「それは本当なの?」を五回繰り返した。そして五回悲痛な叫び声をあげた。床につっ伏し、放心したように身をよじった。ごろごろ転がって、壁に激しくぶち当たった。向きを変えて今度は卓子の脚にぶつかった。あちこちにぶつかって、むき出しの肩から血を流した。そしてついに本当に放心し、床に縫いつけられたかのごとくにわずかな身動きですらしなくなった。
 やがて悲しみは凍りつき、凍りついた悲しみは抑えがたい氷の炎に転じ、めらめらと炎上した。ゼノビアは、電光石火、近衛兵を中核とする鎮圧軍をすばやく招集して、いかにも急造で意気のあがらない謀反のやからを簡単にうち破った。マエオニウスは捕らえられてゼノビアの前に引き出された。彼女は、マエオニウスが哲学塾の学友であることなど一顧だにしなかった。抜き身をぎらりと抜き放ち、マエオニウスの眼前に突きつけた。彼はがたがたふるえ、暗殺団の陰の首謀者がぬけぬけとゼノビアの間近に控えていることを白状した。
「それは誰だ?」
「あなたのご近習、アレクシス殿です」
 ゼノビアは一瞬、絶句した。アレクシスはその日も彼女のかたわらに控えていた。彼女はアレクシスを見やった。
 アレクシスはゼノビアの前に出てひざまずき、顔をあげ、悪びれることなくさばさばとした表情で言った。
「あい、その通りよ。王を殺せとマエオニウスをけしかけてやったのさ。妃殿下の愛を独占している王が憎くてね。あたしは妃殿下が好きで好きでたまらない。あなたがふたなり(両性具有)だってのは気づいていた。宦官のあたしには性はない、でもあなたには陰陽揃って二つもある。そんなあなたがうらめしいっていうより、凄まじくも狂おしい羨望・・・そして、それがいつしか抑えようのない崇敬の念に衣替えしていくってのが、なんとも情けない話じゃないか。そんなあなたをさらにさらに好きになって、狂おしいほどに好きになって、とにかく好きで好きで、死ぬほど好きになって。でも、あなたはそんなあたしの思いなど、蝿の吐息ほどにも気づいてくれない。あたしは狂っちまったんだよ。それほどあなたに恋い焦がれてしまったのさ。あなたに初めて会ったとき、あたしの心の館は音をたててくずれっちまったんだ。代わりの館にはあなたが、あなただけが住まうようになった。あたしはただの、その館の大家であるにすぎなかった。店子に恋い焦がれるってのが、どんなものなのかあなたには決してわかるまい。大家は大家でしかなく、その大家が所持するものといっては店子だけで、肝心の自分の住まいってものがないんだよ。おまけに店子――あたしのいいひとの心の大部分を占めているのはオダエナトゥスという男なんだ。あたしはあたしのいいひとだけじゃなく、そのひとの心に巣くうそんな男の幻までも身中に住まわせてるんだ。ばかな話さね。そこへマエオニウスっていう、うってつけの愚か者がすぐそばにいるってことに気づいたってわけさ」
 わずかのためらいもなく、ゼノビアはおのれ自らの手で二人の喉をかき切った。血が噴出する二六七年の秋もたけなわの時分だった。

 

            ≪しょの10≫

 クラッシウスとティッティにとって、ロンギノスの哲学塾通いが自然消滅したというのは少しは楽になってせいせいしたと言いたいところだが、どうもそうもいかない後味のわるさがあった。なにしろ王家の三人――ゼノビア、ヘロデス、マエオニウスのうちヘロデスとマエオニウスがすでに鬼籍に入り、ゼノビアはといえば、はからずもとんでもない激動の渦中に身を投じざるを得なくなり、塾通いどころではなくなってしまったからだ。
 いまでは、道化二人はローマン色小町パルミラ店での勤めはやめ、ゼノビアの強いすすめで、あれほど固辞していた宮廷道化というけっこうな身分を手にしていた。住まいも、宮殿近くの宮仕え人(びと)用寄合い宿舎の一舎があてがわれていた。ある日、クラッシウスがティッティに言った。
「おい、ヘロデスとマエオニウスが亡くなって一年、おれたちがこの宿舎へ移ってきてさらに一年、なんか場違いなところに来ちまったってぇわけなんだが、おめえはアムター姐さんとちょいと何して、ちょいとどうゆう按配になってるんだい」
「ちょいと何してって言ったって、おれたちゃあそんなんじゃねぇんだ。姐さんは、身体は客には売るものの、想いびとにはただってぇのが気に入らねぇらしい。売り物をただで手に入れるなんて闇手形きってるようなもんだっていうんだよ。あたしゃそんなこそこそしたのはいやだってぇわけさ」
「じゃあ何か、おめぇたちは清く美しいまんまなんか? っても、有料だろうと無料だろうと、その手のことってのはこそこそやるってぇのが相場なんじゃねぇかい」
「・・・」
「おやまぁそりゃまぁなんと、まっことご愁傷様で」
「ひとのことは置いておいて、おめぇのほうはどうなってるんだい?」
「えっ、おれのほう?」
 さすがに、ゼノビアが好きだ、なんて口がさけても言えない。そう、クラッシウスはゼノビアを愛してしまったのだ。禁断の恋なんちゅう不埒なおもちゃに焦がれようとしている・・・。
「どうした? 何か思いあたることでもあるんか」
「ははっ、よしてくんねぇ、おれってぇ人間は、色恋沙汰ってぇもんとは大シリア砂漠をへだてるってぇくらい縁がねぇ。砂漠のお舟のラクダさん、なんとかお前に乗っかって、憎っくき砂の大海をひと越えさせておくんなさいってぇくらいのもんだ。相性がわるいせいかそのラクダさんさえとんと出てきやしねぇ」
 ま、そんなこんなのけちな痴話ばなしはどっか脇へおいておいて、パルミラは今まさに激震のさなかにあった。
 ローマから、今は亡きオダエナトゥスに与えられていたいろいろな権限や権益は彼個人に付与されたものであって、世襲はされないというのがローマ側の意向・方針・建前というのがそもそもの発端だった。つまり、ローマの同盟国としてのパルミラの王位も、ローマの執政官職である全東方諸国の改革者(実質的な帝国東方総督)という称号・職位も、オダエナトゥスの子息――ワーバラトには譲られないということなのだ。隊商や市民への徴税権など、パルミラ王家の死活を制する経済の権益だけはまあ、現状どおり担保されたが。
 これは何だ、とゼノビアは思った。夫とともに命がけで守り通してきたパルミラの王位もローマ帝国からの官位も夫の死とともにきれいに消え去る。これは何だ、いったい何なのだ。
「こんなとき、ぼくのとる戦略・・・」
 と、ゼノビアはつぶやいた。
「それはつねに男のそれだ。相手はぼくを女だと思ってる、だが残念、ぼくは男なんだ。恩知らずのローマはいまや四面楚歌、ぐっちゃぐちゃだ。夫ならばそれを何とか収拾しうるはずだ。夫こそローマの皇帝にふさわしい。そうだ、ぼくが夫のあとをひき継げばいい」
 彼女は、ローマの意向を完全に無視する挙にでた。まだ幼いワーバラトにパルミラ王を名乗らせ、自身は後見人として、また幼き王の摂政として君臨し、パルミラの気概を内外に知らしめた。実質上の女王の誕生だ。事実、周りの者たちは彼女を女王と呼んだ。
 ローマは急遽、ヘラクリアヌス将軍を指揮官とする討伐軍をさし向けてきた。ゼノビアはこれを迎え撃ち、ごくあっさりたやすく撃ち破った。ローマとの同盟が破棄されたことに対していささかの不安をおぼえていたパルミラ国民も、この戦勝に胸をなでおろし、素直にゼノビアを賛美・称揚した。いつしか彼らは、ゼノビアを女王と呼ぶようになった。
 翌年、ローマに異変が勃発した。軍部の反乱によりガリエヌス帝が殺されたという。同事件の首謀者の一人であるクラウディウスが帝位を継いだ。
 ときは来たれり、とゼノビアは思った。彼女はペルシアに遣いを出した。「パルミラはローマとは袂をわかった。腑抜けのローマに代わり、アジアのローマの直轄領、属州はすべて平らげるつもりである。貴軍とは幾たびか干戈(かんか)を交えはしたが、それも今はむかしのはなし、これからは倶(とも)に天を戴き、相和して共通の仇ローマに立ち向かおうではないか」と呼びかけたのだ。ペルシア王シャープールは、ペルシア商人のアーブティンを通じて、その旨、了解せりとの返事をよこした。昨今のシャープールは遠征への意欲をすっかり失い、むしろ、ローマからの干渉を吸収する緩衝地としてのパルミラに、ペルシアにとっての存在価値を見出していた。
 ゼノビアはフィルムスを召しよせた。フィルムスというのはギリシア人の豪商で、アエギュプトゥス(エジプト)のアレクサンドレイアにおいてパピルス製紙業、貿易業、船舶業などを手広く手がけて莫大な財をなし、いまや名ばかりのローマ総督に代わって自ら造幣所を切り盛りして貨幣を鋳造したりもするアレクサンドレイア随一の顔役だった。アエギュプトゥスの山岳地帯やアラビアの住民とも取引し、紅海を経てインドへも船を出しているという。最近の彼は、シリア最大の隊商都パルミラの女王ゼノビアにも接近せんと、ぺルシアの商人アーブティンの仲介を経てまんまと女王との謁見を果たし、王宮への出入りも許されたばかりだった。
 そのフィルムスが、でっかい図体を窮屈そうにかがめてひざまずき、こう言った。
「これはこれは女王様。ご機嫌うるわしゅう存じます。陛下にイシス神のご加護を、御国にオシリス神の栄光を、御国の民にアモン神の祝福を。さて、このフィルムスめに御用の筋がおありとか。さあれば、なんなりとお申しつけくださりませ」
「うん、フィルムス殿、まず聞くんだけど、君はローマに対してどのような立場をとってるんだろう?」
「ほい、ローマとな。そりゃあ女王様、ローマといえば身勝手三昧の税金泥棒ですわな。しょっちゅう益体(やくたい)もない内乱騒ぎに明け暮れ、猫の目のように皇帝が代わり、そのたびに課税額が上乗せされてアエギュプトゥスの民は青息吐息、明日をも知れぬ干乾び草でさぁ」
「ぼくは君も承知のようにローマとは袂をわかった。そんなぼくのところへわざわざ出向いてきたのだから、君もローマには気兼ねすることなく、おのれのなすべきことをなさんとする魂胆なんだろう」
 フィルムスは油断のない目つきでにんまりし、
「とは言いましてもな、成算なきことにまで顔を突っこむような酔狂はごめんこうむりたいもので」
「はは、君は知らないだろうが、ペルシア王のシャープールとはすでに話がついているんだ。ぼくがローマの直轄領と属州――アエギュプトゥス、カッパドキアパレスティナあたりを平らげてもおかまいなしとの言質(げんち)をとりつけてある。シャープールはもうすっかり老いぼれてしまって、もっぱら内政のほうにうつつをぬかしている。つまり、このあたり一帯にはぼくを除いて強力な君主はもはや不在ってことだ」
「ふーむ、さようでありつるか。ふむ、ふむ、ふむ。んじゃわかり申しました。確かにゼノビア様、あなた様をおいてアジアの盟主はおらんようにみえますな。よろしい、アエギュプトゥスをさしあげましょう。女王様はアエギュプトゥス王を名乗るがよろしい、そして国家経綸のことどもはおおむねこのフィルムスにおまかせいただく。それでよろしいですな」
「うん、いいよ」
 ゼノビアは晴れやかな笑みを浮かべた。フィルムスは彼女の前までいざりより、両者はしっかり手を握りあった。アエギュプトゥス(エジプト)―パルミラの闇同盟がなった瞬間だった。二六八年四月吉日のことである。かくして、ゼノビアという麗花が絢爛と咲きほこるわずか四年でしかない日月(じつげつ)の幕がそっとあいた。
 フィルムスが大勢のとり巻き連をひき連れてアエギュプトゥスへ帰還する日、その一団の中には道化二人の姿もあった。ゼノビアにねだってフィルムス付きの道化にしてもらい一行に混ぜてもらったのだ。
 アエギュプトゥスはローマ市民の憧れの地だった。わけても、アレクサンドレイアは。クラッシウスとティッティも、生意気に同じ想いを抱いていた。ローマなんかよりはずっと古くから高い文明を興隆させ、ローマ本国なんかよりずっとどでかい国土を護持し、噂に聞くピューラミス(ピラミッド)をはじめとする壮大な石造建造物がいくつも屯(たむろ)し、なかんずくアレクサンドレイアは、世界の学び舎、蔵書の館(図書館)として四辺になりひびき、幾多の秀でた学者や詩人が群れ集(つど)って才知を競い、世界の結び目、地中海の花嫁と称揚され、多くのローマ市民からの敬愛を一身に集めてるってことくらいは二人も心得ていた。「ナイルの水を飲む者はみな兄弟」といい、そういう「来る者はこばまず」といった懐の深さもよっ大旦那と声をかけたくなるようなよい加減だった。
 そのアレクサンドレイアは、噂にたがわぬ別天地だった。フィルムスがぎゅうじっている街だってことは聞いているが、そのフィルムスとつるんでやってきたおれらはそんならここじゃいい顔だとばかり、二人は大いに意気がって街中を経めぐった。
 ティッティが言う。
「おい、なんかこう、においが違うって思わねぇか。違うってぇより、ローマの街中では当たり前のいやなにおいがここじゃぁしねぇ」
 確かにそうだった。ローマは下水道が発達していたが、多くの貧乏人はその恩恵を受けられず、インスラ(共同住宅)の前の穴やそこらの空き地に排泄物を投げ棄てていた。また、ゴミなどの廃棄物は郊外へ運び出されて、そこに掘られた巨大な穴に投棄されたが、それらの穴は満杯になるまで覆われなかったので、街中にまで届く悪臭を四六時中発散させていた。それらのにおいがローマの街を覆っていた。それがここアレクサンドレイアではきれいに解消されていた。
 クラッシウスが答えて言った。
「うむ、さようであるな。どんな手妻(手品)を用いておるのであろう、ご同輩、貴君はいかにおぼしめすかな」
「ってやんでぇ、何気どってやがる。そのわけぁ、ここが天下のアレクサンドレイアだからじゃねぇか」
「それは、答えておるようでまっとうな答えとはなっておらん。答えのていをなすためには、現物・実物に即した方法論を組み立ててご提示なされよ。貴君の申されようはメタ発言に類することにて・・・」
「よさねぇか、おっかしな御託をならべやがって、ばかばかしい。それよかどっかで飯でも食おうぜ」
 ってんで、二人は近場の食堂に入って、アエギュプトゥスに来たらこれだってんでまず麦酒をたのんだ。アエギュプトゥスは麦酒の国だった。食べ物を表すアエギュプトゥス文字(象形文字)が一鉢の麦酒と一塊のパンで表されているくらいなのだ。
「ぷはー、んめぇ」
 と、これはクラッシウス。
「ちぇっ、もう死んだってもいいやってな顔(つら)して呑みあさってやがら」
「おれぁ、このあいだ見(め)っけたんだけどよ、この麦酒を冷やして呑むとまた格別なんだ」
 当時、酒を冷やして飲むという習慣はなかった。どこまでも場違いな男ならではの言い草だった。
 ティッティが少しまじめなふうで言った。
「アエギュプトゥスにも道化はいるんだろうな」
「そりゃぁいますがな。道化と娼婦は世界最古の生業(なりわい)っていいますからな」
「どこへ行ったらお目にかかれるんだろう」
「そうでありんすなぁ、渡りの道化ならそこらの街角でとっつかまえられるんだろうが、おれたち同様の宮廷道化ってんなら、それこそどっかの宮殿にでも行かねぇとお目にかかれねぇだろ」
「フィルムスにたのんでみちゃぁどうだい」
「うん、当たりだ、そうしよう」
 フィルムスの手をわずらわすまでもなかった。当のフィルムス自身が道化を飼っていた。フィルムスは勢いを失ったローマ人を尻目に実質的なアレクサンドレイアの君主としてふるまっていたから、彼が道化を召しかかえていたってちっともおかしくはなかった。
 フィルムスが二人にひき合わせた道化の名前はアアセフラーといった。「ラー(太陽神)は語るべき偉大なもの」というほどの意味らしい。なんか、アエギュプトゥスの道化ともなると名前もご大層なものになるんかなと、クラッシウスはアアセフラーをちょっとばかしまぶしそうにじっと見た。アアセフラーはぽっと頬を紅(あか)らめた。彼は中年の坂を転げ落ち白髪もちらほらといった年格好だった。
「ご両所、お名前は?」
 と彼が聞いた。ラテン語だった。二人は名乗りをあげた。アアセフラーが言葉を継いだ。
「わしらの芸というのは祝宴の席や酒席などで余興をやったり、曲芸を見せたりというよりは、ご主人様にへばりついて冗談やへらず口をたたくというのが主なお役なのだ。それが遠慮会釈なくまっとうできるように、わしらにはご主人に向かって無礼なことでもなんでも平気でものが言える特権がある。ご両所もパルミラ王家の宮廷道化とは聞いているが、そのへんの呼吸はどうなっとるんだね」
 ティッティが答える。
「へい、まぁあたしらの芸ってのは、どっちかといえば余興や軽業・曲芸まがい、さてはくすぐり・お笑いといったもんが主で、あんさんのいうような、ご主人に多少耳のいたいことでも平気でものが言えるってぇのとはちょっと違うようで、まぁ幇間めいたおとりもちの技でご主人の無聊をおなぐさめするってぇぐらいがいいところで」
「ふん、彼我(ひが)では君主の性分が多少違うとみえる」
「いえ、わたしらのご主人はパルミラ女王のゼノビア様で、このお方とはかつて同じ学舎で学んだこともある仲で、けっこう耳のいたいことでもたまには言ってやります」
「何、ゼノビア様?」
「へぇ」
「ふむ、おお、そうじゃ、こんなところでは落ち着いて話もできん、さあさこっちゃへどうぞ」
 と、突然手のひらを返したような応対に変わり、二人はアアセフラーの私室とおぼしき趣味のよい部屋へ招じ入れられた。
「さ、お掛けくだされ。ただいま茶の用意もさせますのでな。ってか、酒のほうがよろしいかな」
 クラッシウスはうなずいた。
 酒肴が運ばれて、クラッシウスが待ってたほいと勝手におっぱじめる。
「で、そのゼノビア様というのは、噂どおりの美しい方なので?」
 とアアセフラー。クラッシウスがその言をひきとって答える。
「噂がどれほどのもんかわからないけれど、そんじょそこらの噂くらいではちょっと太刀打ちできないってのはほんとだな。ああ、あの強く吸い込まれちゃいそうな黒い瞳、心穏やかにひびくほどのよい低くてよく通る声、鍛え抜かれた強靭さがそのままエロスに変じて怪しの色香をほとばしらせるあの熟れたそれでいてよくしぼられた肉体・・・」
 アアセフラーの額に汗が浮かんだ。
「して、あんた方はそんな女王様に毎日直近でかぶりついておるのか」
「そうだよーん、だよーん様がお通りだーい、りだーい様はふん詰まり」
「女王様がアエギュプトゥスにご到来になるって話はないのか」
「あるよー、あるよの話はほんとっぱち」
「ふむ、そ、それはいったい、いつ頃になるんだ」
 ゼノビアがアエギュプトゥスを手中にする腹づもりでいることはフィルムスからそれとなく聞いてはいたけれど、それがいつ頃になるのか、明日なのか、一年先なのか、それはさっぱりわからなかった。
「意外と早いかもねぇ。でも、そんとき見るゼノビア様は、馬へうちまたがり、鎧兜で身を固め、手には弓、腰には大太刀、背には靫(ゆぎ)といったあっぱれ颯爽のいでたちですぜ」
「おお、それなら女ながらに軍装し、一軍をひきいては敵兵と刃を交え、砂漠を疾駆しつつ馬上から矢を射る女丈夫という噂はほんとうであったか」
「ほんと、ほんと、ほんと町」
 脇からティッティがクラッシウスに言った。
「よしねぇ、いい加減にしねぇか。もっとまっとうな受け答えをしねぇ。道化が道化をおちょくってどうすんだ」
 アアセフラーが言った。
「わしはなにも好色の念から女王様を拝みたいなどと言ってるんじゃないぞ。あっぱれ女将軍としてのゼノビア様に相まみえたいと願っておるのだ。そんなりりしいお方に、ひとときでもいいからお仕えしたいと念じておるのだ」
 ふーむ、そんなもんかねぇと、クラッシウスは感心する。同じ道化でも、こちらのお方はおれたちとはちょっと筋が違っていそうだ。そんなお方をへたにおちょくった自分の下種な根性が多少うらめしかった。
 アアセフラーがいった。
「さぁ、どれ、ご両所お立ち会いのうえでフィルムス殿にご挨拶かたがたご機嫌うかがいに参ろうと思うがいかがかな?」
「それぁけっこう毛だらけ猫灰だらけ、抜け駆けトンビでまっしぐらにござんす」
 とティッティが応ずる。道化二人はフィルムスとは何度か顔を合わせてはいるが、それは公務外の時だけで、彼が実質的なアエギュプトゥス王として執務する場には行きあたったことはなかった。
 フィルムスの執務室を警護する衛士は、宮廷道化のアアセフラーに随伴する道化二人には何の疑いも抱かず、ニコニコ顔で彼ら三人を部屋に通した。道化二人が初めて目にするその部屋は贅沢な装飾で無駄に飾られ、同様に無駄な贅肉をたっぷり細い骨にまとったフィルムスが、玉座とまごう金ぴかの倚子に居心地わるそうに鎮座していた。彼は言った。
「おう、アアセフラー、いまそちを呼ぼうと思ってたのだ。いつまで経っても肩が凝り、手足がしびれる病癖が抜けきらんのでな。そちの戯言(ざれごと)でも聴いてちっとは憂いをまぎらわしたい」
 アアセフラーがすかさず応じた。
「身に合わぬ座具にその醜くでぶった図体を無理やり押し込んだ祟りでありましょう。昔用いていた質朴で健やかなる肘かけ椅子に席替えめされ」
 フィルムスの表情が一瞬、引きつった。が、すぐ破顔一笑して
「相変わらず手きびしいな、アアセフラー。まぁあれだ、おれもこんな金ぴかの安楽椅子に座して王を気どろうなんて気はそんなにないんだが、アエギュプトゥス(エジプト)の連中に対しては甘い顔は見せられんのでな。王たる者はここにこうしてふんぞり返り、ああだこうだと言いちらしていないとあいつらは安心ができんみたいなんだ」
 クラッシウスはびっくりした。王まがいの主人に対して、あんなにも手厳しい憎まれ口をたたくってぇのがやつの吹かす芸の風なのか・・・。ゼノビア様には、いくらなじみつながりとはいえあそこまでの悪たれ口はたたけねぇ。これがアエギュプトゥス流ってやつなのか。
 後になってアアセフラーは、彼をゼノビアに謁見させることを道化二人に誓わせたうえで、おのれの芸風の要諦についてこう語ってくれた。
「アエギュプトゥスにあっては、王というのは神ともまごう絶対権力者なのだ。しかし王個人にとっては背負いきれぬほどの大変な重荷なのだ。王はそうした絶対性のゆえにタテマエを生き抜かねばならない。しかし、そのままではあふれ出てくる自身の裡(うち)にあるホンネを抑えきれなくなる。そこで道化が必要となる。王はタテマエを通しつつ、自己との釣り合いをとるために道化にホンネを語らせるのだ。道化というのは苦悩と涙を笑いに変え、つくり笑いのなかにすすり泣きと痛みを隠し、心に毒をそそぐ苦しみなどは笑い飛ばしてやるっていうのが本家本筋の生業(なりわい)なのであってな、道化の涙は血の涙というくらいのものなのだ。つまりそんなふうに、主人に向かって悪たれ口をたたくというあとのない崖っぷちの芸もあるってことさ」

 

            ≪しょの11≫

 数日後、二人はアレクサンドレイアの大図書館や、万邦の英哲俊才が集(つど)ったというムセイオン(学術攻究院)といったところをがらにもなく見学した。まぁそうはいいつつも、ローマでは味わえないギリシア風の思惟・思想の香りといったものは感じとれたような気がしたみたいだった。
 アレクサンドレイアという街は、六〇〇年ほど前に、かのアレクサンドロス大王の肝いりで建設が始まったという。アレクサンドロスの死後、その部下だったプトレマイオス一世がアエギュプトゥスを治め、アエギュプトゥス最後の王朝――プトレマイオス朝を創始した。アレクサンドレイアはその首都として発足し、めざましい発展をとげた。
 ところが三〇〇年前、クレオパトラ七世の弟プトレマイオス十三世のときにローマのカエサルと戦って敗れ、その際に生じた艦隊の大火災が陸地にまでおよんで蔵書七十万巻をほこる大図書館そしてムセイオンも焼け落ちたという。ローマ帝国の統治下に入ったあとに再建されたが、往時の繁栄ぶり、威風はすっかり損なわれてしまった。とはいっても図書館は大図書館と言うに足るだけの規模はまだ保っていた。

ビブリオテカ・アレクサンドリア・プロジェクト 古代アレクサンドリア図書館は、どんな建物だったのか
 街の中心には、人間五十人が縦列行進できるほどの幅の東西南北を貫く大通りが交差して一帯を四つの区画に分けており、街路は碁盤目状に整備されて地下には下水道が通じていた。4つの区画のうち、地中海に面した海風が最初に吹きこんでくるあたりにはローマ総督宮(かつての王宮)と支配階級のローマ人やギリシア人の居住区があった。大図書館もムセイオンもこの一角にあった。この区画に隣あって海岸沿いに展開する区画には、神殿や霊廟、裁判所や体育館、劇場や倉庫などの公共建物群がたち並んでいた。海岸沿いのこれら両区画はブルケイオンと呼ばれていた。

f:id:enrilpenang:20181211181224j:plain古代アレクサンドリア探訪より引用

 ブルケイオンの下に2つ並ぶ区画の一方はラコティスと呼ばれ、地元民であるアエギュプトゥス人や、地中海沿岸の各地から移り住んできた者たちが居住する一帯だった。もう一方はコム・エル・ディッカと呼ばれる居住区で、ディアスポラによって各地に離散したユダヤ人が大挙して集(つど)って、世界最大級のユダヤ人共同体を形成していた。八百人ほどを収容できる円形劇場もこの区画にあった。
 そして何よりアレクサンドレイアといえば、ファロスの大灯台だ。

f:id:enrilpenang:20181211183001j:plainファロスの大灯台(想像図)

沖合いに浮かぶファロス島から突きでた岬の突端に建てられ、ファロス島と陸側とは距離1ミリアリウム(マイル)ほどの堤道で結ばれていた。港はこの堤道によって東西に分断され、東港は主に漁船や内航船が、西港は地中海諸国を結ぶ大型交易船が利用していた。
 大灯台は、高さ約四アクトゥス(百三十四メートル)をほこり、当時ではアレクサンドレイア東南にあるピューラミス(ピラミッド)に次ぐ高さだった。頂点には鏡が設けられ、日中はこれに陽光を反射させ、夜間は火を焚いてその炎を反射させていた。内部には螺旋状の通路が設けられ、そこをロバを用いて薪を運んだ。大灯台にピューラミスと、かの世界七不思議のうちの二つまでがアエギュプトゥスにはあったのだ。
 ブルケイオンの貴族の居住する界隈では、各屋敷の庭園でカーネーション、薔薇、グラジオラス、百合、極楽鳥花、アザレア、ブーゲンビリア、火炎木、ジャカランダグアバ、仙人掌、アカシア、帝王無花果ジャスミンなどありとある花々が咲き競って、人を酔わせるような甘ずっぱい香りをただよわせていた。
 ラコティスとコム・エル・ディッカの職人たちの住む迷路のように入りくんだ路地では、指物師や仕立て屋、鍛冶屋や修理工などが忙しくたち働いていた。ムセイオンの研究者たちは、こうしたところに住む職人たちを使って自分たちが開発した新技術を試したりしていた。
 さて、道化二人は漁船にも乗せてもらってアレクサンドレイア港内をへ巡った。水はエメラルド色、ファロスの大灯台が日にぎらぎらと輝き、大小の船々がものうくたゆたっていた。二人はアレクサンドレイアの街と海をたっぷり堪能し、アエギュプトゥスならではの酒や食べ物にも慣れ親しんで、まぁ、それだけならよくあるのんきなおのぼりさんといった風情なのだが、実はティッティはあのアムター姐さんをこの地に伴ってきていたのである。来着するや姐さんは、アレクサンドレイアの遊女屋を軒並みあたって仕事先を探した。
「ふん、妙に気位の高い店ばっかりじゃぁないか。それにあちきが相手できるのはラテン語パルミラ語を話す客だけ。そんなこんなでなかなかつとめの話がまとまりゃしない」
 ティッティが言った。
「そうは言うけど来てますぜ、この宿舎に。ものほしげな面(つら)さげてアムター姐さんはこちらで、なんてね」
 道化二人とアムター姐さんはこの地ではフィルムスの使用人扱いとなっており、そういう者たちのための宿舎に寝泊りしていたが、その宿舎へ、遊女屋の牛太郎(若い衆)たちが姐さんを店へさそいにやってくると言っているのだ。
「いい加減、だだをこねてないで、ほどのよいところで手を打っておしまいなさいよ」
 とティッティ。
「別にだだはこねてないさ。ただ、どうもアエギュプトゥス人やヌビア人ってのは苦手かなって感じがして、なかなかふんぎれないんだよ」
「でも、ラテン語のしゃべれるアエギュプトゥス人なら素性もよい野郎だろうし、なんとか目をつぶってうまくなにしちゃっておくんなさいよ」
「なんとか目をつぶってうまくなにしてって、お前さん、わちきをそんなに色里に放り込みたいのかい」
 と、またせんない痴話げんかだ。
 さて、そんなこんなでいつの間にか二年ほどの歳月があっというまに過ぎさり、道化二人はいちおう過不足のない給金をフィルムスから支給され、あいも変わらぬわがまま三昧を決めこむアムター姐さんも何とかアレクサンドレイア随一の遊女屋に席が決まって、どうやらひと安心としらばっくれていられたのもつかの間、パルミラ軍がアエギュプトゥス攻略に動いたという報せがアレクサンドレイアに伝わった。市内は騒然とし、市民はローマ総督宮の動きの推移の有りように固唾をのんだ。しかし総督はすたこらローマに逃げ帰り、代わりにローマは勇猛で鳴るプロブス将軍を派遣してきた。

f:id:enrilpenang:20181212163624j:plainローマ皇帝就位後のプロブス像

 ゼノビアは、配下の諸都市から徴集した諸部隊合わせて七万の軍勢をザブダス将軍の指揮下に預け、その軍がアエギュプトゥスに押し入ってきた。プロブス将軍がローマ兵だけでなくアエギュプトゥス兵をもひきいてこれを迎え撃ち、いっときはパルミラ軍を撃退した。その一週間ばかりの撃退期間のあいだ、プロブスはローマ総督として総督宮に入った。
 しかしフィルムスの謀略によって、ローマ側についていたアエギュプトゥス人のさる有力者がローマを裏切るという事態が勃発して、その策略にまんまとひっかかったローマは結局、パルミラに敗北をきっした。プロブスは総督宮を明け渡してローマへ撤退した。総督宮にはそのあとフィルムスが入った。
 こうしたごたごたのただ中で、ローマにおいては新皇帝が即位した。その名はアウレリアヌス。彼はしばらくは事態を静観していた。パルミラは表向きはいまだローマの同盟国で、ゼノビアの息子のワーバラトがローマ総督を名乗っていた。

f:id:enrilpenang:20181213182711j:plainアウレリアヌス帝が彫られた金貨(FORVM PACISより引用)

 アレクサンドレイアではこの頃、ワーバラトとアウレリアヌスの名前と胸像をそれぞれ表裏に刻んだ貨幣が鋳造された。翌年には、アンティオキアにおいても。
 ゼノビアは、果敢に野望の仕上げにかかった。主力部隊をアナトリアのアンキュラへと移動させて小アジアの半分以上を手中にしたのだ。フィルムスは、アエギュプトゥスに残るパルミラ留守部隊のめんどうをみた。
 かくして、アエギュプトゥスから黒海南岸近くまでの一帯がパルミラ領となった。

f:id:enrilpenang:20181211190030p:plainTANTANの雑学と哲学の小部屋より引用

西アジアとローマとを結ぶ東西交易路のすべてを抑える形になったのだ。ローマに対し決然と反抗姿勢を示したわけだった。
 この頃に、アレクサンドレイアとアンティオキアにおいて鋳造された貨幣に刻まれたのは、アウグストゥス(皇帝)を名乗るワーバラトの名前と胸像のみとなった。その後、女王の称号をもつゼノビアの名前と胸像を刻んだ貨幣も鋳造された。

f:id:enrilpenang:20181211190749j:plainゼノビア女王が彫られたコイン

 アウレリアヌスはこの間、北方ゲルマン民族との戦闘に明け暮れ、なんとかそれらを平定して帝国の秩序を回復したばかりころだった。再三にわたり侵攻してくる北方異民族に対してローマを守るために彼は、ローマをぐるりととり囲む城壁(アウレリアヌスの城壁)をも構築し始めた。

f:id:enrilpenang:20181213183143j:plainアウレリアヌスの城壁(FORVM PACISより引用)

 こうして後顧のうれいをなんとか鎮めたあとに残るのはパルミラの問題だった。皇帝に即位して三年目の二七二年、彼は行動を起こした。まず、パルミラとの同盟を破棄して代わりに宣戦の布告をした。そして、手始めにプロブスを再度アエギュプトゥスに派遣し、パルミラに対しては一度は降伏を呼びかけた――のだが、パルミラ側はこれを無視して毅然と抗戦の構えを示した。
 アウレリアヌスは軍を率いてローマを進発し、怒涛のごとくパルミラ領に押し入った。アナトリアのピテュニアを無血で抜き、アンキュラの降を容れ、テュアナも頑強な攻防戦のあげくこれを落とした。降伏したところには寛大な処置をとったので、多くの都市が無血で開城した。そうした諸都市の沿道を通ってシリアへ向かい、オロンテス川畔のアンティオキアに達したとき、ゼノビアが大群をひきいてローマ軍を待ちかまえていた。
 パルミラ軍は、ローマ軍との本格会戦にそなえて騎兵部隊を重装に固めていた。それを知ったアウレリアヌスは、歩兵部隊と軽装の騎兵部隊を編成して、最初からことを構えず先方から攻撃をしかけてくるのを待った。その誘いにのってパルミラ軍が攻勢に出ると、軽装備で身軽になったローマ軍は見せかけの敗走を演じ、そんなローマ軍を重装備のパルミラ軍は炎暑のなかを追撃した。パルミラ軍が人馬共に疲れきって休息していると、すかさずローマの軽騎兵が襲いかかって刀で切り倒し馬蹄で踏みつけたので、一面が死体でうずまった。軽騎兵主体の戦闘は元来パルミラ軍が得意とする戦法であるのに、そのお株をローマ軍に奪われてボロ負けをきっしたわけだった。
 パルミラ軍はザブダス将軍にひきいられ、アンティオキアから撤退した。アウレリアヌスはアンティオキアに入城した。このかつてのセレウコス朝シリア王国の首都はギリシア人やローマ人が多く居住し、その彼らからの熱烈な歓迎をうけたのち、アウレリアヌスはさらに南方へと進撃した。
 ゼノビアのもとに再び七万人からなるパルミラ軍が集結し、エメサ付近に布陣しているとの情報を得ると、アウレリアヌスも自ら各地から精鋭部隊を徴集して兵力の増強をはかり、来たるべき決戦にのぞんだ
 実際に行われた戦闘の有様は、アンティオキアでの戦闘を丸写しにしたかのごとくだった。パルミラ軍は、軽騎兵戦のお株をローマ軍に奪われっぱなしで連敗したのだった。パルミラ軍は敗走して、パルミラの城域にたてこもった。アウレリアヌスはエメサに入城して住民の歓迎をうけたのち、東方に進んでパルミラを包囲した。
 一方、その頃のアエギュプトゥスの情勢は、アエギュプトゥスを実質的に支配するフィルムスと、アウレリアヌスが派遣したプロブス将軍とのにらみ合いの真っ最中だった。兵力はフィルムスのほうが断然有利なのだが、なにせ相手が勇猛で鳴るローマきっての名将だから下手に手が出せずにいたのだ。といっても、プロブスにも一気には攻められない事情があった。アウレリアヌスから与えられた手勢があまりに少なく、アエギュプトゥス人の援兵をいかに補強すべきかという懸案をかかえていたのだ。そんなすくみ合いのために、実質的な戦端はなかなか開かれなかった。
 アエギュプトゥスにいる道化二人は、そんなパルミラでの戦闘やお膝元のアエギュプトゥスでの戦端のなりゆきにやきもきしていた。
「おい、お家の一大事だぞ。のんきに酒なんぞくらってる場合か」
 と、ティッティがクラッシウスに毒づいた。二人はゆきつけの酒場にいた。
「っていったって、おれたちにゃぁ手も足も出せねえじゃねえか」
「馬鹿野郎、そこがてめえは意気地がねぇってんだ。鉢巻一本きりりと巻いて、竹槍一本小脇にかかえ、酒しぶき一身に浴びて、いざパルミラへってぇ意気地(いきじ)ぐらい見せてみろい」
「で、おめえ本当に戦(いくさ)ごっこの仲間入りしに行くんか」
「いや、そうもいくめいよ。だがな、このティッティ様の戦(いくさ)脳にぴんとくるものがあるんだ」
「・・・」
「プロブスよ。やつは今、ファロス島に拠って総督宮のフィルムスとにらみ合をつづけている。そこでだ、フィルムスとつるんでプロブスを亡き者にしちまうんだ。そうしないとおめえ、やつがこの街を落としてその勢いをかってパルミラに駆けつけでもしてみねえ、アウレリアヌスを相手に四苦八苦しているゼノビア様にとって、そんな敵のおかわりがまた押し寄せてくるなんてことになったらさすが女王様でも手も足も出めえ」
 ってことで、道化二人は、がらにもなく人様の手助けなんてぇ乙なお仕事に手を染めることになった。

 

            ≪しょの12≫

 ここはフィルムスの屋敷の一室、主(あるじ)はいま、道化二人とぼそぼそ話しこんでいた。
「で、お前さんたちに人殺しなんてことができるのかい」
 ティッティが答える。
「えっ、そっそりゃぁ、無理ざんす。できやしません。ノミの子一匹だって殺したこたぁねえ。だもんでこう、プロブスのやつをとりもって、酔いつぶさせてから何する手引きをするてぇところが精一杯で」
「ふむ、それでいい。つぶれたやつの始末はこっちでやる。お前さんたちはそんな物騒な景色は見たくないだろうから、さっさとその場から消えちまうがいい」
「で、やつは今、どこにいるんで?」
「ふむ、それが問題だ。ローマ兵はファロス島に集結してるんだが、それだけではいかにも兵力不足のはずだから、やつはアエギュプトゥス人の補充兵集めに血まなこになっているに違いない。アレクサンドレイアのどこかにたてこもって、盛んにあれこれ工作しているはずだ。まず、やつの居どころ探しが先決だな」
 プロブスやーいと、ローマの勇猛将軍の居どころ探しがこうして始まった。二人はまず、いまはフィルムスが偽王として執務するかってのローマ総督宮へ向かった。
 それはアレクサンドレイア港に突き出たでっぱりの突端にあった。この役所には三年ほど前、パルミラ対アエギュプトゥス戦のときに一時的にパルミラ軍を撃退したプロブスが総督として一週間ばかり居住していたことがあった。そんなかすかな痕跡からでもプロブスを探す手がかりを見つけるしかなかった。
 クラッシウスが言った。
「この役所に出入りする人間はたくさんいたんだろう。そいつらに当たってみちゃあどうだい」
「よっ、クラさん、いいところに気がつきなすった。そのでんでいきやしょう、ってってもどこから当たりをつけりゃあいいんだ」
「プロブスは呑兵衛だそうだから、出入りの酒屋にでも当たったらどうかい」
「うむ、餅は餅屋とはよく言った、呑兵衛が呑兵衛の酒まわりの事情に気づくってわけだ」
 総督宮に出入りの酒屋なんてローマ出の道化らにわかるわけはなかったが、フィルムスに手を回してもらって三軒の有力そうな酒屋を知ることができた。
 一軒目は総督宮の近くに大きな店をかまえていたので、まずそこへ行った。若いメリハリのきいた体つきの女店員が、手持ち無沙汰を絵に描いたようなあくびをしていた。ティッティがその店員に話しかけた(ちなみに道化二人は、この頃にはかたことながらアエギュプトゥス語をしゃべれるようになっていた)。
「あ、ちょいとおたずねしたいんだが、三年ばかり前になるんだが、ほら例のパルミラ軍が攻め込んできたときのことさ。ローマのプロブス将軍がいっときパルミラ軍を撃退して、総督宮へ入ったじゃぁないか。そんとき総督宮に酒を納めていたってのはうちかい?」
「えっ、ああそうだけど、でもいまはフィルムス様に代替わりしてるけどね」
「プロブス将軍のことについて少しだけ聞きたいんだけどな」
 と言いながら、ティッティは銀貨をそっと店員のポケットにすべりこませた。店員の応対が一変した。
将軍様は一週間ほどしかいなかったけれど、あのひと酒にはけっこううるさくて、このあたしにいろいろ注文するうちにあたしと別懇になったんだ。あの人助平でさ、あたしの胸とかお尻をすぐ触るのさ。だから言ってやったんだ、将軍様、あたしの胸とかお尻とか太ももは有料なんですよ、今ならとびきりはりきり大奉仕期間中なんで相場の二割引きの半ドラクマでいいからさって」
 クラッシウスが囃(はや)した。
「よっ、体ひとつで御内職、はげめや内職、むしれや助平のお手元金」
「そんなことから将軍様とはずっと気安く口をきくようになったのさ。そんで、どんなことが聞きたいんだい?」
 ティッティが言う。
「うん、将軍の内輪のつき合い仲間のうちで、あんたが知ってるやつは誰かいないかね?」
「内輪のつき合い仲間? たとえばどんな?」
「うん、そうさなぁ、軍人ではなくてこう、なんかを扱う商人(あきんど)だとか貿易商だとか海運にたずさわる船主(ふなぬし)だとか、なんかそんなんだ」
 プロブスは自身での行き来や、武器・武具とかの物資や兵員の輸送・連絡なんかのために、ローマとのあいだで船のやりとりをしていたに相違ないとにらんでの質問だった。
「あたしの兄が船乗りなのさ。雇い主はもっぱらローマへ船をやっている船主なんだけど、兄によると、その船主と将軍様とは昵懇の間柄だったらしいよ」
 クラッシウスが言った。
「あたしのベンガラ脳がチカチカって赤く灯ったよ、将軍様はいまでもその船主とツーカーなはずだ。おいティッティ、船だ、船だよ、やつが身を潜めるとすれば船が一番だ。そこに隠れて、アエギュプトゥス人の兵員集めの工作をしているんだ。船でなら必死こいてかき集めたアエギュプトゥス人をファロス島へ運ぶのにも使えるし」
「うんそうか! おいねいさん、さしつかえなかったらあんたの名前を教えてくれないか」
「あたしの名前かい、エムシェレってんだよ、子猫って意味さ」
「エムシェレちゃん、そのあんたの兄さんの雇い主ってのは誰で、どこへ行けば会える?」
「そのひとはピネジェムっていうんだ。そのひとの船は、暇なときはアレクサンドレイアの港に浮かんでいるから、そこへ行けば会えるんじゃないかい」
「エムシェレちゃん、我が女神、我が心臓、我が肝吸い、ほんとにありがと、助かったよ」
 そう言うとティッティは、店に積んである酒瓶を物ほしそうに眺めまわしているクラッシウスの腕をひっぱって店を飛び出した。
「おい、港へ行こう、そこでかたっぱしから聞いてまわるんだ。ピネジェムの船はどれかってな」
 二人は港に駆けつけた。このアレクサンドレイアなる港は地中海国家の表玄関として、見栄えのする建物、とにかくよく目立つ建造物などは海側に、つまりくっきりはっきり国威を称揚するに足るモニュメントは海から見える側に――という意図をあらわに示して陽光のもとで照りかえっていた。そうした意図の象徴がファロスの大灯台や大図書館なのだった。
 港はファロス島へと通じる堤道を境に東港と西港に分かれていた。ローマ通いの船のような地中海諸国を結ぶ大型交易船は西港を使っているはずなので、そちら側に行った。埠頭や倉庫とか各地の商人や船主が寄り合う商館や、ドムス(個人住宅)やインスラ(共同住宅)などの住宅そして大小の公衆浴場などがひしめき、インスラの一階はタベルナ(商店)になっていてそこには居酒屋や食堂もあった。多くの外国人が闊歩しており、彼方の沖合いにはファロスの大灯台が、また、陸側のとっさきの王宮の向かい側には航海の守護神であるイシスの大神殿も見わたせた。なにしろここは、ローマの穀倉でありかつ直轄領でもあるアエギュプトゥス第一の花形港だから、交易シーズンともなれば数百隻のローマ通いの大型船舶でにぎわうのだが、いまは割合閑散としていた。
 クラッシウスが言った。
「おい、こんなところでかたっぱしから声をかけたりしてたらどれだけかかるか知れやしねえ、それだけで歳とっちゃうぞ」
 ティッティもびびった。そして言った。
「うん、それもそうだ、フィルムスに人手を手配させて探らせようじゃねぇか」
「うん、それがいい、それがいい」
 と、すぐに人に頼ろうとする、絵に描いたような安直さがいつものごとく発揮されたのだった。
 一週間ほどして、よい便りがもたらされた。つい先日、オスティア(ローマ帝国随一の港湾都市)から到着したピネジェムの持ち船に、ただならぬ気配をただよわせたローマ人の一団が見られたという情報だった。
 道化二人は、すぐさま酒屋の店員エムシェレのもとに走った。
 ティッティが彼女に言った。
「エムシェレちゃん、我が女神、我が心臓、我が肝吸い、どうか教えておくれ。君の兄さんはつい最近、ローマからの航海から帰ってきたのじゃないかい?」
「ええ、よく知ってるわね。つい先だって帰ってきたばかりだよ」
「おお、エムシェレちゃん、どうか君の兄さんに合わせておくれでないか」
 と言いながらティッティは、銀貨をエムシェレのポケットにすべりこませた。
「いいよ、いいともさ、この店がはねる夕方頃に来ておくれ、兄さんとこへ連れてってあげるからさ」
 エムシェレ兄妹が住んでいるインスラというのは、アエギュプトゥス人の居住区であるラコティスにあった。インスラは四階建てで、兄弟の住まいは三階にあった。こうしたインスラは二階以上には下水道が通じておらず、そこの住民は汚水や排泄物を一階入り口の穴にまでわざわざ降ろす必要があったから、兄弟は最下等(四階)よりは一段ましな階に住んでいるというわけだった。

f:id:enrilpenang:20181214191248j:plainインスラの一例(FORVM PACISより引用)

 エムシェレが兄に言った。
「兄ちゃん、こちらの二人はちょいとしたことで知り合ったばっかりなんだけどね、先だって兄ちゃんがローマから帰ってきたときの様子を少しばかり聞きたいんだってのさ」
 エムシェレの兄は、見るからに目はしのききそうな男だった。こうした人間には単刀直入にきりだすに限ると、ティッティは
「あんさんはローマから帰ったばかりだってぇことを妹さんから聞いたんだが、そのときの船客のなかに、あたしの知り合いのローマ人がいなかったかどうかを知りたいんだが」
と言って、銀貨を隠し持った手でエムシェレの兄の手をさりげなく握った。兄弟そろっておんなじ手が通じますようにと殊勝に祈って。エムシェレの兄はけげんな顔をして、
「なんだいこれぁ、変なことをしてもらっては困るよ。おれぁ、こういうことは大嫌いなんだ、ふん」
 と言って、銀貨をぽんと放りすてた。うへっとティッティは思い、あわてて銀貨を拾った。クラッシウスが言った。
「ほうれ、見ねえ。だからおれが言ったじゃぁねえか。海の男の兄(あに)さんにそんな手は通じねぇって。いやっ何ね、兄さん、実はそのローマ人の知り合いの中にこいつの生き別れになった兄貴がいるかも知れねぇってことなんだ。ローマから船が来るたんびにこうしてたずね歩いてるんだ。兄さんとこへ来るんは今日が初めてなんだが」
 ティッティは、いきなりしおらしくしゅんとした風情をせいぜいかもして、いかにもわけありのあわれっぽさをしぼりだしてみせた。
 エムシェレの兄が言った。
「そうかい、端(はな)っからそう言ってくれりゃぁよかったのによ。んで、その兄御はいくつくらいで、髪の毛は何色で、なんか人相風体に特徴でもあるんかい」
 ティッティは、フィルムスから聞いてあったプロブスの年恰好、髪色、人相の特徴などをとつとつと述べた。
「ふうん、そんなやつぁいたようにも思えるし、いなかったとも思える。で、そいつの名前は何ていうんだい」
 ティッティが答える。
「プロブス将軍っていうんだ」
「おっ、そいつなら確かにいたな。まわりのやつから将軍って呼ばれていたやつに、今あんたが言ったような人相風体のやつがいた。プロブス将軍ってぇのはあれだろ、おれの妹にちょっかいを出すっていう助平おやじのことだろ。そいつは船を下りずに船を寝ぐらにしているみたいだったぜ」
 よっ、兄(あに)さん、バール様、ミトラス様と声をかけたいのを我慢してティッティはさらにつづける。
「いやあ、兄さん、すんばらしい、気に入った、おい、クラッシウス、一杯やりに行こうってなぜ言わねぇんだ、さあ、みんなで繰り出してひと騒ぎやらかそうじゃねえか」

 

            ≪しょの13≫

 てぇわけで、エムシェレの兄さんゆきつけの西港の居酒屋に一同は押しかけた。エムシェレの兄の名はメティといい、正義という意味だと彼はさも誇らしげに告げ、皆に正直メティと呼ばれていると言った。ティッティはそこで、自分たち二人が実はローマを食いつめてアレクサンドレイアに流れてきた道化であると持ちかけ、ついては兄(あに)さんの雇い主である船主にかけあって、自分らを将軍様付きの道化としてつかの間の慰みもんとして船で雇ってくれるよう薦めてはもらえまいかと頼んだ。酒でよい加減に火照っていた正直メティは「いいとも、兄弟」と、安請け合いしてくれた。
 翌日の昼過ぎ、クラッシウスとティッティの宿舎にアムター姐さんが久しぶりに遊びにきた。ちょうど、正直メティとおちあって彼の雇い主であるピネジェムのところへ二人を案内させるという約束の刻限が近づいているときだった。姐さんは言った。
「おや、どこかへ出かけようってわけかい?」
 ティッティが言う。
「うん、実はそうなんだ。ちょっと身の丈に会わねぇことをしでかそうってんで」
「えっ、なんか面白そうじゃないか、あちきはここんとこもう退屈で退屈で、退屈病で死にかけてるんだ。病人をほっておくっつうのはいけないよ。だからさ、そのあんさんらがしでかさんとしていることにさ、このあちきも混ぜておくれでないか」
 クラッシウスがにやにやして言った。
「いいじゃねぇか、将軍様は呑兵衛で助平なんだろう。呑兵衛を酔いつぶして何しようってのがおれたちのはかりごとなら、助平を色仕掛けでがんじがらめにするってのもそんな的外れってことでもねぇじゃねえか」
 姐さんが言う。
「色仕掛けねぇ。懐かしい言葉だ。今じゃ仕掛けも何もありゃぁしない。何事も御銭(おあし)しだいだ。ローマ人もアエギュプトゥス人もユダヤ人も、そのほか何とか人もみんな御銭さえ出しゃぁ思いがかなうとおもってやがる。へんだ、アムター姐さんもなめられたもんだ」
 ティッティが言った。
「んじゃ、姐さんは酌婦ってな按配でおれたちとつるんでもらおうか。っても店のほうはどうするんだ」
「疝気でも病んだとかなんとか言ってさ、使いのもんにそう言って休んじまえばいいさ」
 ってんでこのての話はすぐまとまり、三人は正直メティのもとに繰り出した。メティは姐さんを見て驚いた。
「うへ、綺麗な姐さんだ。えっ、遊女だって、嘘だぁ、そんなふうには見えねぇ。そんな飢えた野郎相手の亡者稼業につきなすってるなんてとても思えねぇ」
 アムター姐さんが言う。
「うれしいことを言ってくれる。でもね、ほんとなのさ。あんたも店へ来てくれたらわかるよ。でもね、来ないほうがいい、来てもふられたほうがまじにいい。ふられて帰る果報者ってね、それですっぱり足を洗っちまうほうがずっといいんだよ」
 正直メティに案内されて、三人は港に向かった。メティの雇い主のピネジェムは、港の一角の広い敷地に豪勢な屋敷をかまえていた。ピネジェムは五十がらみの禿頭で恰幅のよい、金歯がチカチカきらめく甲高い声を出す男だった。メティは三人を彼に紹介した。
 ピネジェムはアムター姐さんに目を釘づけにして言った。
「ほう、粋な姐さんだ。どうだ、おれが個人的に囲ってやろうか、どうだ?」
 姐さんは言った。
「ふん、おこころざしはうれしいが、囲い者になるのだけはまっぴら御免だよ。あちきはね、心底惚れた男以外の男に飼い殺しにされるなんて想像すらしたことはないよ。それに、この自分に簡単にころぶような野郎にゃあきあきしてるんだ。少しは骨のある男にまみえたいのさ。ローマの将軍様がどれほどの男なのかはわからんけれど、試しにあちきらをその将軍様の接待のお役に使ってみてはおくれでないか」
「こいつぁ豪気だ。気に入った。銭金(ぜにかね)じゃぁ簡単にゃ転ばないってわけだ。おれの金歯にかけて誓うぞ、いつかはお前をものにしてみせる」
「ほい、言ってくれるじゃないか、待ってるよあちきの金歯どん」
 こうして三人、特にアムター姐さんはピネジェムに気に入られ、おかげで三日後には首尾よくプロブス将軍の潜んでいる船へ連れていかれた。
 将軍は大きな目をした三十男だった。ピネジェムは彼に三人を紹介した。将軍は言った。
「ああ左様であるか。ローマへの往ったり来たりの長い船倉(ふなぐら)暮らしにもそろそろ飽いた。ここらで少し羽根をのばしてもばちは当たるまい。まあ、通いできてもいいし、そこらの空き部屋にでも寝泊りして常雇いの体(てい)でもいい、さっそく今晩からでもとりもってもらおうか」
 うまくできすぎている観はあるが、ともかくこうして三人はプロブスのふところ近くにまで接近した。その晩、ピネジェムも招かれて船内でちょっとした宴会が催された。道化二人は腕によりをかけて将軍のとりもちに没頭し、アムター姐さんはちょっと場違いな酌婦として酒をついで回った。将軍の眼が、いつしかそんなかいがいしい姐さんに釘づけになった。あの女をここへ呼べ、と将軍は命じた。有無を言わさぬ調子だった。お付きが姐さんを連れてきた。将軍は姐さんに言った。
「おぬし、名は何と申す」
 姐さんは変に媚を見せずあっさり言った。
「あい、あちきの名はアムターでありんす」
「ふむ、パルミラ人の名前のようだの」
「あい、そうでありんす」
パルミラはいま、ローマ軍に包囲されてるんじゃないのか?」
「あい、そのようでありんすなぁ。将軍様はその包囲軍には関わりがないんでありんすか?」
「うむ、まぁいまはな。ってか、まぁそんなことはどうでもいい、姐さん、今宵はとことん呑み明かそうではないか」
「あい、うれしい、お酒はつぐもんじゃなくて呑むもんだってことをつくづく思い知らせておくんなまし」
「頼もしい、そんなせりふは初めて聞いたぞ。おれは無性にうれしい」
 と言ってプロブスは骨ばった手を姐さんの乳にのばした。姐さんはやんわり、
「は、気のはやい、あんさん、も少し待っておくんなんし、も少し酔わせてからにしておくれよ」
 と言ってプロブスの手を軽くはらいのけた。そして言った。
「あんさん、あちきはエメラルドには目がないんだ。ほら、あんさんの指にからまってるじゃないか、それをあちきにおくれでないか」
「えっ、こりゃぁお前、わしが軍団長に抜擢された記念に皇帝陛下より賜った記念の品だ。何かほかのものにしてくれ、な、お前」
「そんならいい、あちきはいらない。なんもいらない。ここにもいたくない、あちきは帰る」
 と言って、姐さんは立ち上がり、ほんとに出口に向かって歩きだそうとした。プロブスはあわてて、
「おい、は、はやまるな。指輪はくれてやる、なぁに、アエギュプトゥスを落とせば陛下はまた何かくれるさ。ほれ、指にはめてみろ」
 姐さんは再びプロブスにしなだれかかり、指輪を受けとって指にはめ、宙にかざしてつくづく眺めいった。
 こんな具合にして、その後も姐さんはプロブスから高価なものをさんざんむしりとった。プロブスはのちにアウレリアヌス帝のあとを継いで皇帝となり、公明正大で率先垂範、緊急肝要事は人まかせにせず自身が行い、畢竟(ひっきょう)やる気に満ちた熱血の漢(おとこ)として軍隊内での声望はアウレリアヌス帝に匹敵し、慈悲深さにおいてはむしろ勝っていたと評されるくらいのなかなかの人物らしいのだが、このときはまあ、なんというか女にむしりとられるのを楽しんでいるかのようなうすみっともない仕儀だった。
 が、さすが名うての武人だけあってつけ入るすきをあからさまに見せることはなかった。アムター姐さんに膝枕しているときでさえ、刀は手ばなさなかった。フィルムスが放った刺客は手をこまぬいているほかはなく、そうした按配でいたずらに時はたっていった。それに姐さんだけでなく、道化二人も気前のいいプロブスのことを憎からず思うようになっていた。ときには、刺客に嘘の情報を流して無駄骨をおらせることさえあった。
 姐さんは、いつまでたってもプロブスに肌を許すことはなかった。姐さんは、プロブスにこう言った。
「あちきは好いたお方とは契りんせん。抱いて別れるくらいなら抱かずに育つ想い花。至誠の愛は気持ちのみにて通じ合うもの」
 プロブスは不思議な気持ちでそれを聞いた。なんか、権力にまかせて女体を手に入れる安直な成就感よりも、こうしてきっぱりふられてしまうというなりゆきのほうがよっぽどすっとするという奇妙なさっぱり感につつまれた。
 まぁそんな、プロブスもただの男なんではあるが、どっかいさぎがよくて物惜しみしないというなかなか乙なとりえもあって、道化二人はますます彼が憎めなくなってしまうというおまけもついたが、プロブスはやはりローマきっての優れた武人であってしっかりと自分の本分を果たした。アエギュプトゥス討伐軍の編成をどうにかなしとげ、暑いさなか軍団を召集して閲兵式をとり行った。道化二人と姐さんはその光景を黙然と眺めた。考えてみれば、この三人はパルミラの対する裏切り者だった。この裏切りがゼノビアにとってどれほどの痛手となるかは、彼らはこのとき、まだはっきりとは気づいていなかった。
 ここのところ、せわしさにかまけてはいたが、クラッシウスがゼノビアのことを忘れることはなかった。彼女はずいぶん遠いところへ行ってしまった。自分の身の丈では及ぶべくもない大きな存在へと成長していた。いまやローマとタイマンで張り合うパルミラ帝国の女王とまでなっている。たかが女王付きの宮廷道化たる自分が恋焦がれる相手ではない。そんなことは百も承知ノ介だ。
 パルミラのみんな――プロクルスやロンギノス、ディオゲネスたちは無事でいるんだろうか。アガメムノンはインディアでミイロ(弥勒)様にでも改宗して国へ帰ってるんだろうか。オダエナトゥスとヘロデスを殺したマエオニウス、それと彼をそそのかした奇人宦官アレクシスはともにゼノビアに殺されたが、あの二人もわるい人間じゃなかった。ヘロデスは目から鼻への才気煥発な小にくらしい小僧だったが・・・。
 クラッシウスはティッティとアムターに言った。
「おい、帰ろう、パルミラに帰ろう」
 ティッティは
「うん、おれもおんなじこと考えていた、帰ろう」
 と言い、アムターも
「あい、あちきも同じ想いでありんす。ずいぶんこの街では稼がせてもらったけど、もう飽いたざんす。帰りましょう、パルミラへ、ゼノビアはんのいるところへ」
 武人プロブスは、三年前の失態をみごとに挽回して、パルミラ掌握下にあるアエギュプトゥスを負け戦に追いこんだ。その勢いをかってプロブス軍はパルミラへと向かった。その軍の中には、二人の道化と一人の遊女がプロブスの正規の認可のもとにまぎれこんでいた。
 パルミラではローマ軍による包囲がまだつづいており、ゼノビアとしてはその包囲の長期化によるローマ軍の兵站切れをあてこんでいたのだが、プロブス軍の来援によってアエギュプトゥスとの新たな補給路ができあがってしまい、ゼノビアの頼りにしていた一縷な目論見ももろくもくずれ去った。

f:id:enrilpenang:20181123174427j:plainパルミラ市街を見納めるゼノビア女王

周辺のアラブ遊牧民からの加勢・援軍もあったのだが、それも焼け石に水だった。そんな中でパルミラ軍は最後まで頑強に抵抗した。それはさすがに熾烈をきわめた。

 

            ≪しょの14≫

 プロブス軍にまぎれこんでいたティッティ、クラッシウス、アムターの三人は、ある夜そっと陣営を抜け出し、パルミラ軍の陣地をとり囲む城壁へとりついた。背後には砂漠が、いまでは妙に懐かしい砂の海が広がっていた。その砂漠の一角から妙な声がした。
「シャボテンコーリャンヨナベラッカサン」
「なんでぇ、ありゃあ」
 とクラッシウス。するとかの声の主がひょっこり現れた。ぼろぼろ、よれよれ、がりがりの年寄りだった。彼は言った。
「おい、お前たちは何をしておる?」
 ティッティが言った。
「おれたちゃ、アレクサンドレイアから自分の国へ帰ってきたところよ」
「こんなにっちもさっちもいかない時にか?」
「・・・」
「わしの名はダナイトラ・ウラヌス。砂漠の隠者だ」
「その隠者さんがおれたちに何か用かい」
「うむ、いまからわしの言うことをよく聞いて、それをここの女王さんに伝えてもらいたい」
「・・・・・・」
「では言うぞ。お前の国は滅ぶ。誰がわるいのでもない。ただ滅ぶ。だが、その国の骸(むくろ)は幾星霜、幾百年にもわたり消え去ることはないだろう。ここを訪(おとな)う幾百年もの後の旅人が、お前のために涙することもあるやもしれぬ」
「な、なんでぇ、縁起でもねぇ、よしねぇ、しっしっ、あっちへ行け」
 隠者はちょっとさびしげにすっと微笑(わら)い、きびすを返すとトコトコと歩み去った。小さな風がぴゅっと三人の頬をかすめた。
 事前に密書を放ってあったので、彼らは城壁の内に無事に入ることができた。さっそく女王のもとに駆けつけた。
 ゼノビアは元気そうだった。彼女は言った。
「やぁ、お帰り。二人とも達者のようじゃないか。おや、そちらのご婦人は?」
 ティッティはアムターを紹介した。
「はい女王様、この婦人はアムターと申しまして、こんな場所にはふさわしくない下賎の者でございます。ひょんなことからあたしと馴染みになりまして、アエギュプトゥスへも共に行って参りました」
 ティッティは、これまでのいきがかりをざっと女王に説明した。
「あ、そうなんだ、プロブスの軍から抜け出してきたわけだね」
「はい、女王様」
 ティッティは、砂漠の隠者と称する老人のたわ言をゼノビアに告げるかどうか迷った。結局、黙っていることにした。
 女王に陰のようにつき従っていた宦官アレクシスはもはやいなかったが、代わりのようにロンギノスが相談役然としてはべっていた。そのロンギノスが言った。
「なんかお前たち、ふたまわりくらい成長したみたいだな。アレクサンドレイアはむかし、このわたしがアンモニオス・サッカスという先生のもとで勉学に励んだところだ。同じ門下生には、ガリエヌス帝の寵愛を受けて有名になったローマの哲学者プロティノスや、クリスト教の神学者オリゲネスなどがおった。みんな若かった」
 クラッシウスがまぜっかえす。
「えっ、先生は生まれながらに年寄りだったって聞いてるが、そうじゃないんで?」
「それならわたしは二人分歳をとってるってわけか?」
「いやぁ、それにしちゃぁお若く見える。まるで一人分しか歳とってないように見えまさぁ」
 そこへ、奥医師らしき男が真っ青な顔をしてやってきた。彼は言った。
「女王様、若君様のご容態が急変いたしました」
 ゼノビアの表情がにわかに曇った。そして医師とともに駆け出していった。ぽかんと見送る道化二人にロンギノスが告げた。
「ワーバラト様が疫病に罹られたのだ。実は十日ほど前からパルミラ一帯に伝染病が蔓延しだして、患者が急増しておる。兵士もかなりの数がやられた」
 ワーバラトは、クラッシウスが拾ってきた子である。十歳くらいになるのか。その幼いワーバラトはいまや、アウグストゥス(皇帝)を名乗る殿上人(びと)だった。病(やまい)というやつはいたずらに公平で、乞食にも皇帝にも情け様子なく襲いかかる。ゼノビアは一見、達者そうには見えるが、その内実は踏んだり蹴ったりの、真っ暗修羅場の真っ盛りなのだろう。
 さらにクラッシウスは思う。いまにして、プロブス軍という援軍がパルミラ包囲軍をいかに力づけ、それの影響がいかに甚大であったかがうんとわかる。これのおかげで、ゼノビアの戦略は音をたててくずれた。フィルムスとつるんで狙ったはずのプロブスの命、その暗殺の任務を未遂に終わらせてしまう手伝いをしたのは自分ら道化二人である。ゼノビアの足を思いきり引っ張ったのだ。
 砂漠の隠者の不吉な予言が頭をかすめる。思わず彼はティッティをじっと見た。
「浮かない顔してどうした」
 とティッティ。
「おい、おれたちはゼノビア様をとんでもない窮地に追いこんだんだぞ」
「えっ、どうして?」
 こいつはまだ気づいてないのか? クラッシウスはつづけた。
「だっておめぇ、プロブスをおめおめ生きながらえさせちまった責任の一端はおれらにある」
「ま、そうだな。でもおめぇ、おれたちはたかが道化、道化仕事になりゆきを求めるやつぁいねぇ。な、そうだろ」
「・・・」
「アムター姐さんはどうしてる?」
「うん、なんかおめぇ同様浮かねぇ顔して酒ばかり呑んでるよ」
「おっ、忘れてた。ほい、おいらにゃ酒っつうつおーい味方があったのだ。よし、呑もう、おい、姐さんも連れてきねぇ。やけ酒やんぱち祭りといこうじゃねぇか」
「無謀な人間は神も見放す」
「えっ、何か言ったか?」
「いや、こっちの話よ、よっしゃおっぱじめよう、いま姐さんを呼んでくらぁ」
 無謀な人間も、無謀になれぬ人間も自棄にはなれる。そんな者たちの酒盛りが延々とつづけられ、夜は駆け足で過ぎ去り、夜明けがあわただしくやってきた。戦場の朝が。
 クラッシウスは眼を覚ますと、うすぼんやりのまま起きて、広い宮殿内をさまよった。こんなときだから誰にも文句は言われない。彼はゼノビアの寝室へ向かった。寝室の窓越しにさす陽光が扉の隙間から洩れている。ちょっと躊躇してから、彼は扉をそっと押した。扉は開いた。彼は中に入った。豪華な寝台があり、そのベール越しに陽光のなかにまどろむゼノビアがいた。彼は近づいた。そしてベールの隙間から顔を差し入れる――女王ゼノビアの寝姿が・・・。
 彼はそっとゼノビアの頭をなでた。彼女は眼を開けた。一瞬はっとしたようだったが、相手が誰なのかわかるとほっと微笑んだ。彼女は言った。
「君も寝るかい?」
 クラッシウスはうなずき、服を脱ぎ、ゼノビアの隣にもぐりこんだ。おそるおそる彼女の手をつかんだ。彼女は抵抗しなかった。手をにぎった。それからそろそろと彼女の胸に手を置き、たわわだが固めの実をそっとつかんだ。彼女の口から軽いあえぎが洩れた。
 いったいおれは何をしてるんだろうという意識はあった。だがその意識は無意識に打ち負かされ、彼はゼノビアにのしかかった。そして抱きすくめた。そして泣いた。そして言った。
「死なないで」
「うん、いや、どうだろう。死ぬわけにもいかないが、死なないわけにもいかないんじゃないかな。そんな中でいまは生きてる。その証(あかし)を君とこうして確かめ合ってる。ぼくは心配だ、君の心臓がね。君の心臓は強いほうかい?」
「心臓は強いが弱い。体の部品としての心臓は丈夫だけど、心と呼ばれるときの心臓は弱い」
 そう言いながらクラッシウスの手はお定まりの方角に向いていた。下穿きをはずしにかかったのだ。ゼノビアはわずかにあらがい、体を硬くした。クラッシウスの手は、ああ、その手はいま禁断の何かに触れた。あってはならないものに。
 クラッシウスはひっと手を、そして体を引き、息をのみ、硬直した。ゼノビアが言った。
「ほうらね、そうなんだ、ぼくはふたなりなんだ。でもどっちかといえば男なんだよ。ぼくが愛した人間はオダエナトゥスだけさ。彼はとてつもなく素晴らしい人だった。彼との日々がまだつづいていたらと願わずにはいられない。でも、最上のこと、そんな頂上感覚というのは長つづきしない。頂上なんてのはほんの一点を占めるだけで、ほとんどは麓(ふもと)の広がりなんだからね。ドラマは麓で起こって、それがほとばしって山腹を駆け上がってゆく。でも頂上をきわめられる者はごくわずかで、しかもきわめたとしてもその絶頂感はあっという間に溶け去り、その絶頂期はあっという間に消え去ってしまう」

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眠れるヘルマプロディートス(ギリシア神話に登場する両性具有の神。1619年に復元された2世紀ごろのローマ神像)

 クラッシウスは理解した。とてつもない人間を好きになったということの意味を。彼は言った。
「女王様、あたしはとんでもない失礼をぶっこいちまいました。そして、あなたの尊厳にじかに触れてしまいました。ああ、あたしはまだ生きていますか。あたしはまた娑婆に戻れるんでしょうか」
「あはは、しおらしいことを言う。でも、ぼくも君が好きだよ。好き好き好きのすっきりきん、なんて君は言うんだろ、こんなとき」
 二人はもう一度軽く抱き合い、瞳を見つめあい、自然に笑みを分け合った。クラッシウスは服を着て寝台を降り、生まれて初めてうやうやしく礼の挨拶をし、それからひっそりと自室に引き上げた。

 ローマ軍による執拗な包囲がつづくなか、アウレリアヌスから以下のような書状が届けられた。
「女王よ、ここにつつしんで勧告する。お主たちは降伏せよ。お主たちの命と安全は保証する。ゼノビアよ、お主の手持ちの財宝はすべてローマの国庫に差し出さねばならない。お主とお主の子供はともに、わたしが指定する場所に居住しなければならない。そうすれば、パルミラの人民は自分たちの権利をまっとうできるであろう」
 ゼノビアは返書を送った。
「貴下が書簡で示したような要求にはこれまで接したことがありません。戦闘にあたっての古今の要諦はただ勇あるのみです。貴下はわたしに降伏するよう要求していますが、貴下は、かのクレオパトラがどのような高い地位で生きながらえるよりも、女王としていさおしく死ぬことを選んだということを知らないようですね。我々にはペルシアからの援軍が来るでしょう。我々はいまもそれを待っています。我々の味方にはアラビア人がおり、アルメニア人もいます。アウレリアヌスよ、貴下の軍隊はシリアの盗賊らにも敗れているではありませんか。これ以上何を言うことがありましょう。もし、我らが待ち望んでいる各地の軍勢が来着すれば、いま、貴下があたかも完全な勝利を得たかのようにわたしに降伏を命じているその尊大な態度も、いつまでつづけていられるものでありましょうか」
 そう、ゼノビアはペルシアのシャープールに手を回し、援軍を要請していた。が、寿命の終焉を目前にひかえたペルシアの老王はそれを黙殺した。篭城にあたっては、援軍や友軍の到来の保証が必須ということは彼女にもわかっていた。だが、ここにおいてもまた彼女は、プロブス軍の来援によってローマ軍の兵站切れの見込みが絶たれたのと同様、気まぐれ風にそよぐか細い望みの糸でしかない援軍のあても失ったわけだった。
 ゼノビアのそんなにっちもさっちもゆかない窮状をしりめに、ローマ軍にはフィルムスの目を盗んでアエギュプトゥス人の補充兵がさらに加わった。さらにパルミラ城内では、僭帝ワーバラトが手当てのかいもなく死んだ。
 ことここに及んで王子の死に嘆き暮らす余裕すらもなく、ゼノビアは、シャープールに直談判する腹づもりでパルミラの城壁を抜け出した。夜陰にまぎれてのラクダによる逃避行ではあったが、あえなくローマ軍に見つかって騎兵による追跡をうけた。ユーフラテス川畔にまではどうにか達したが、それが限界だった。ローマ騎兵はゼノビアに追いき、彼女を捕虜とした。
 パルミラ城内では、抗戦か降伏かで意見は割れたが、ゼノビアが捕らえられたと知れた今、徹底抗戦を主張するのは少数派で、結局は降伏ということに一決し、そのしるしとして城壁からオリーブの枝を差し出した。二七二年の秋頃のことだった。
 アウレリアヌスは太陽神を崇拝していた。彼は、パルミラが太陽神としても敬われるミトラス教の盛んであることを知り、またゼノビアの毅然としたものおじしない態度とふるまいにも感じ入っていたので、包囲を解いたあとも住民に危害を加えたり、略奪に及んだりすることはなかった。彼は、ローマ人の執政官と弓騎兵隊だけを残してエメサに引きあげた。パルミラ統治の実務は、ゼノビアの遠縁にあたるアキレウスという男がローマ人執政官のもとで担当した。
 アウレリアヌスはエメサにいたると、その地の守護神である太陽神の神殿に戦勝を報謝してベロスとヘリオスを祀った。この二神とは、パルミラの主神バールと、ミトラス神の影に隠れてやや精彩を欠いていた太陽神ヤルヒボルだった。アウレリアヌスはのちに、パルミラ戦勝の記念としてローマに巨大な神殿を建立し、これら二神の分祀を行っている。これをみても、パルミラ戦役がアウレリアヌスにとっては単なる征戦にはとどまらない何らかの精神的な影響をもたらした出来事であったことは確かである。
 エメサにおいてアウレリアヌスはパルミラの高官たちを裁判にかけた。ゼノビアはすでに捕虜としてローマへ連行されることが決まっていたが、高官らの処分はこの裁判で決せられるのである。高官らのうちにはロンギノスも含まれていたが、彼は有罪の判決を下されてあえなく刑場の露と散り果てた。
 二七二年末、ゼノビア一行を伴って帰国途上にあったアウレリアヌスは、アナトリア西岸にまで達したとき、パルミラにおいて反乱の勃発したことを知らされた。パルミラのローマ人執政官に抗し、ゼノビアの血縁だというアプサエウスという男が決起したというのだ。
 アウレリアヌスは躊躇せず、馬首をめぐらせてパルミラへひき返し、バール神殿ほか一部の建造物を除いて街を徹底的に破壊しつくした。
 彼はその足でアエギュプトゥスへ向かい、アレクサンドレイアへ行って、その街で勝手にアウグストゥス(皇帝)を名乗っておさまりかえっていたフィルムスをもひっ捕らえて血祭りにあげた――とはいうけれど、本当は彼は首をくくって自害したともいわれている。

 さて、道化二人とアムター姐さんはどこでどうしていたのだろう? もしかしたら戦火に巻きこまれて命を落としたのかもしれない。いや、いけ図々しく生き延びているかもしれない。そしてどこぞの街で、売れない芸の押し売りをしているのかもしれない。まぁ、そんなあんなこんなはどうだっていいことだ。ゼノビアのゆく末でさえ、ローマへ連行される途中、病にかかって死んだとか、自ら食を断ちきって歿したとか、あるいはローマでのアウレリアヌスの凱旋式に加えられ、黄金の鎖でその身を牽引されたとか、かつては自分がローマ訪問のおりに乗ろうともくろんでいたはずの御車に捕虜として収監されたとか、さらには一命をながらえローマ東方のティブル(現ティボリ)で余生をまっとうしたとかいわれているのだ。
 そんなゼノビアはまだ幸せである。彼女のために涙する人だっているかもしれない。あの砂漠の隠者が予言したように――。でも、彼女をとりまく大多数の人らは歴史の闇にのみ込まれ砂漠の風となってしまった。砂漠の砂に埋もれてしまった。みんなみんないなくなってしまった。永遠(とこしえ)の闇の彼方へ・・・。
 おーい、ティッティ、クラッシウス、アムター姐さんよー

               了

 

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